ロックンロールとエトセトラ  
  1月 ビタースウィートシンフォニー
bitter sweet symphony / the verve
 
   
 #2 ローリング・クィーンズ・ストリート モモカ
 

 コートのフードを被って、その上からマフラーをぐるぐるに巻いて歩く。冷たい風がびゅうっと吹き付けて、マフラーを引き上げると鼻まで埋めた。
 ときどき視線を感じて見ると、半笑いの英国人と目が合ったりする。面白がっているのか、ただ不思議なのか。
 でもあたしからすれば、真冬に皮ジャンの下にTシャツ一枚で闊歩できるロンドンっ子の方がおかしいと思うけど。白人とは毛穴の数が違うから、体感温度が違うって聞いたことがある。
 とにかく毛穴が多いか少ないかのせいで、あたしはこの街では異常な程の寒がりになっている。

 また少し雪が降って来た。毎日毎日灰色の空。見上げるだけで憂鬱になる。    あたしたちの家のあるローリングクィーンズストリートまで2ブロックの所で、やっと歩を緩めた。夜道を1人で歩くのはまだ怖い。
『ローリングクィーンズストリート!回転女王様通りっ!』って3人で笑い転げた後に即決した、あたしたちのお城。
 ロンドンガイドになんてもちろん載らない小さな通りにある、傾きかけた3階建ての家。それに裏庭とキッチンの両方から降りられる、ドアの2つ付いた地下室付き。家賃は週たったの20ポンド。
 月2万円弱で一戸建ての家が借りれる上に、地下室で練習ができるし、あたしたちはそれだけで大喜びだった。
 築何年かなんて恐ろしくて聞けなかった。階段にはいくつか踏み抜けた所があった。長年持ち主のいなかった部屋がカビ臭くて、アレルギー持ちのミミコとあたしは、すぐにくしゃみを繰り返した。
 それでもちゃんと分かっていた。そこがすぐに素敵なお城になるっていうことを。
 また北風に吹かれて、あたしはぶるっと体を震わせた。
 近道をしようと、大通りを廻らずに、裏路地をまっすぐ進む事に決めて角を曲がった。あたしたちが越して来てから近所に新しいクラブとパブが出来て、少しにぎやかになった。

 スナッグのある通りを曲がらずに次の細い路地を左に曲がると、2件のフラットの間に人が1人通 れる細い路地がある。そこを抜けて、角を2つ曲がるとあたしたちのお城に到着する。
 これが一番の近道だってあたしは信じているけど、ミミコもチコも賛成してくれない。
 どちらかというとお年寄りの多い安全な地区で、警察沙汰になるようなことは、引っ越してからまだ一度も起こっていなかった。
 こんな細い路地を歩いていても、たくさんのフラットの窓から、温かな光が漏れていて、あたしはちっとも怖くなかった。

 その細い通路をちょうど抜けたところで、あたしは何かをむぎゅっと踏んづけてバランスを崩した。とっさにポケットに入れていた手を出したけど、間に合わなかった。転んだのなんてあまりにも久しぶりで、びっくりして声すら出なかった。  黒いタイツの両膝が見事に破けて、赤い血が滲んだ。膝のすり傷を確認して立ち上がりながら、やっと気付いた。

 え?

 今の、むぎゅって、何? 動物みたいな……
 勢い良く振り返ってみると、それはまぎれもない動物で、茶色い髪の毛で、半袖のTシャツを着た……人間の男の人だった……そのTシャツは赤茶色く染まっている。
 血?


 ……その瞬間、何も考えられなくなった。

 心の中に閉じ込めて、何回も鍵をかけたはずの記憶が一気に押し寄せてくる。 『嘘よッ!ヨウスケッ、ヨウスケ!』
 お母さんのヒステリックな叫び声、その声はだんだんと絶叫に変わった。お父さんも何か叫んでいた。
 息が出来なくなって、その場にしゃがみ込んだまま顔を伏せた。
 怖い、怖い、おねがい、誰か助けて。
 そう思ったけど、声も出せないし、立ち上がることすらできなかった。
 怖いよ、お兄ちゃん……セイくん。
 違う、お兄ちゃんはもういないし、セイくんだってもう絶対にあたしを助けてはくれないんだよ……今まで何万回も言い聞かせたその事実で、自分を奮い立たせた。
 もう一度、勇気を出して顔を上げてみた。涙の溜まったぼやけた目にも、まだそこにその人が横たわっているのが見えた。
 手袋で涙をぬぐって目をしっかり見開いた。もう一度、目をそらさずによく見てみた……すると、うつ伏せの背中がゆっくりと上下しているのが見えた。
 生きてるっ、
 そう思った瞬間、あたしは膝をついて体を乗り出した。
「大丈夫ッ?」
 生きてる、この人はまだ生きてる。
 助けたい、お願い、助かって。
 あたしは手袋を外してその冷たいもつれた巻き毛を払い除けた。

 その髪をかき分けて、目と、鼻と、口が出てきた時、あたしは本当に驚いて、ついに大声が出た。ずっと固まっていた凝縮された悲鳴で、自分でも聞いた事のない笛みたいな大声だった。
 だって……だってっ。
「ジェイミーッ!」
 次はさっきよりもはっきりした絶叫になった。
 その声に反応して、ジェイミーのまぶたが少し震えたのをあたしは見逃さなかった。
 ジェイミーだよ、本物の……ニットキャップスのギタリストで……あたしの王子様のジェイミー。
 その彼が血を流して死にかけてるッ。
 あたしは揺さぶろうとして、その手を引っ込めた。もしかしたら頭を打ってるかもしれない。
 その真っ白な頬に触ってみる。いつからここにいるのか、頬も腕も氷みたいに冷たくなっていた。

「ジェイミー、ジェイミー、大丈夫だよね、」
 あたしは何度も呼び掛けながら、自分のコートとマフラーを彼に掛けた。
 地面に落ちたコートが鈍い音をたてて、あたしはやっと電話のことを思い出した。
 あたしたちは一台の携帯を一緒に使っていて、普段は主に一番遠くに働きに出ているあたしが持っていることが多い……本当に今日持っていてよかった。
 震える指でボタンを押して、急いで救急車を呼んだ。
 あたしは気が動転して、英語をほとんど全部忘れていた。
『落ち着いて、大丈夫、すぐに行くから落ち着いて話して』
 そう言われてることはわかった……でも、絶対に大丈夫な訳がない。
 携帯を持ったままうろうろと歩き回って、やっと近くの建物の壁に番地のついたプレートを見つけて、それを伝えることができた。

「ジェイミー、すぐに救急車来るからね、大丈夫だよ」
 あたしはジェイミーの頭をそっと触りながらそう言い続けた。
 もう大丈夫、きっとジェイミーは助かる。自分にもそう言い聞かせる。
 あたしの憧れの、あのジェイミーが今、目の前にいる。
 本当に夢みたいで、できれば夢であってほしかった。

 でも、さっき打ったひざがじくじく痛んで、セーターの中を風が駆け抜けて行く。
 体中が寒さと恐怖で、がたがた震えていた。

 夢なんかじゃない。

 
  #1#3  
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