ロックンロールとエトセトラ  
  第1章 オトメとエトセトラ-1  
   
  1996年   5月 キタモトモモカ  
 

「なあ、北本さんている?」
 名前を呼ばれた気がして顔を上げると、クラスみんなの視線があたしに集中しているのに気が付いた。
「あ、あそこです、」
 誰かのうわずった声がしてドアの方に目を向けると、手招きしているの男の人がぼんやりと見えた。
「うそ、なんで、稲森先輩だよ」
 何人かの女の子がそう話すのが聞こえた。
 イナモリセンパイ?……知ってる。だって3年生の稲森先輩はすごく目立つからどこにいたって目につく。
  先輩の周りには、いつも女の子たちの好意的なひそひそ話が漂っている。細い体には不釣り合いに大きく見えるドクターマーチンのブーツをひきずるように歩いていて、黒くて短い髪をつんつん立たせて、バンドでギターを弾いている。
 彼は女の子たちの憧れだった。
 先月あった新入生オリエンテーションのクラブ紹介で軽音部の部長としてギターを掻き鳴らしているのを見た時、咽がぐっと押しつぶされるように苦しくなった。
 みんなはきゃっきゃと騒いで彼を恋い焦がれるように見ていたけど、あたしはこみ上げる涙を必死で押さえようとしていた。
 その姿に……そのギターを弾く立ち姿に、お兄ちゃんが重なって見えたから。
 ドアに向かう間、みんなに注目されているのが痛いほどに分かっていた。だけどそれに必死で気付かないふりを続けていた。
 クラスメイトから注がれる興味深々の視線。それから、ドアに立ってあたしを見つめる熱いまなざし。
 入学してたった一ヶ月近くで、もうクラスは打ち解けた感じになっていて、女の子たちはいくつかのグループまで作っている。だけどあたしはまだ入学式当日みたいにクラスから浮いていた。だけど、一定の距離を置いてみんなを眺めているのは、そう悪くない。

「あの、何か用ですか?」
 あたしはドアに立つ先輩にそう言った。声が震えそうなのをこらえようとして、不機嫌な抑揚のない話し方になってしまった。
「ももかちゃん?俺、イナモリセイジ、覚えてないかな?」
 だけどイナモリ先輩は全く気分を悪くしてはいなかった。柔らかい微笑みをたたえて、あたしを見下ろしている。  その顔を初めて近くで見た……目が悪くてはっきりと細かい顔の作りまでは見えない。それでも彼に『モモカちゃん』なんて呼ばれる関係ではないと思った。
「覚えてないよな。俺、ヨウスケさんの。ももかちゃんの兄さんの後輩だったんだ。家にも何度か行ったこと、あるんだよ」
 その一言で、一瞬にして状況が変わった。
 お兄ちゃん……胸がツキンと痛む。
 その名前を他の人の口から聞いたのは、いつが最後だった?
 家族ですら、口にしてはいけない名前……何も言わないでいるあたしを、先輩はじっと見ている。彼には何年か前の もっと無邪気で幼かったあたしが重なって見えているんだろうか?
 あたしはただ信じられない気持ちで先輩を見ていた。
 ……クラスメイトも、廊下に響く笑い声や話し声も、ドアも机も学校も。世界、時間、そして空気さえも。
  全てが消え去って、自分と先輩しか存在していない。

「今日の放課後、見せたいものがあるんだ……時間ある?」
 あたしはまだ先輩を見つめていた。自分の心臓の音しか聞こえない。お兄ちゃん。お兄ちゃん。
「ももかちゃん?」
 先輩が肩に触れて、はっとした。
「あ、はい、大丈夫です」
「そう、よかった。じゃあ、迎えに来るから、ここで待ってて」
 先輩はそう言うとにっこり笑った。その背中を、彼が廊下を曲がって見えなくなるまで見ていた。

 教室の中に向き直ると、クラス全体がまだあたしに注目していた。きっとふたりのやりとりを全て見届けていたんだろう。だけど、もうそんなことはぜんぜん気にならなかった。
 気になっていた先輩が、自分のことを知っていると言う。
 兄の名前を口にした……去年消えてなくなったお兄ちゃんの名前を。

 彼はお兄ちゃんを知っている……そう思うだけで、また咽が締め付けられたようにぐっとなった。

 
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