ロッシが、壁に貼ってある布の画鋲を外して裾をめくると、ドアが出て来た。それを開くと奥にもう一部屋出て来た。というより位
置的にも、巨大なウォークインクローゼットなんだろう。
どっちにしても、今までただの壁だと思って気に留めたこともなかった。
ロッシが電気の紐を引っ張ると、部屋は薄暗くオレンジ色に照らされた。四角い小さな部屋にテーブルがあって、四角い受け皿みたいな物が並んでいた。壁の棚には薬品の瓶がいくつか並んでいる。まさしく暗室だ。それも手づくりの。
あたしがぼーっとそれを眺めている間に、ロッシは一度出てすぐに戻って来た。
「なんか手伝う?」
ロッシはぎこちなく微笑んで首を振った。
「ありがと。けど、これは一人でやるよ」
決意の表れた顔だった。
「分かった。頑張って」
あたしはそう言ってその暗室を出た。
「送ってこうか?」
「ううん、いいよ。ありがと」
「じゃあな」
「うん」
そう言ってロッシはその小さな部屋のドアを閉めた。
テレビを消して帰ろうとした時、ふとその横の本棚の一番下の段が目に入った。背表紙にマジックで年代の書いてあるアルバムだった。あたしは好奇心を抑えられずに、すぐに手を延ばした。
1999と書いてあるアルバムをソファに乗せて開いた。ずっしりと重くてソファが沈む。思った通
り、それはロッシの作品のアルバムだった。パブの喧騒、スクラップ工場、ホームレス、ゴミを漁る猫。確かにロッシが言ったようにどれも楽しい光景ではなかった。だけど、あたしにはそれがただ現実を切り取っただけの写
真だとは思えなかった。
ホームレスのおじさん二人は肩を組んで楽しげに歌を歌っているふうだし、パブで朝から晩までビールを浴びながら文句ばっかり言ってそうなおじさんも、ソファで眠る顔はとても幸せそうに見えた。
ゴミ箱を漁る猫のそばで、子猫が5匹不安そうにこっちを見ていた。
スクラップ工場の写真はただのぐちゃぐちゃの金属が写っているだけだったし、他にもなんとも思わない写
真もあったけど、あたしはロッシの写真に少しずつ惹かれて行った。 2000年、2001年と見ていくうち、その枚数はぐんぐん増えて、あたしはすっかりロッシの写
真に魅せられていた。
あたしはアートとなんて無縁だけど、好きな写真がいっぱいあった。
ロッシが、街や人をすごく優しい目線で見ているんだと思った。それが写真に表れていた。それはすごくあたしの気持ちをほぐしてくれた。
ロッシには悪いけど、ロッシが求めていたリアル以外の要素の方があたしの心に響いた。
きっとリアルだって人によって感覚が違うし、結局は見る人が世界をどう思っているかにかかっているんじゃないかと思う。世界はひどいと思っていれば、ひどい写
真じゃないとリアルさなんて感じないだろうし。
あたしは次々とアルバムに手を延ばして、2001ー3、4、2002、と夢中でアルバムをめくった。
「おい、チー」
ロッシに揺さ振られて目が覚めた。部屋に燦々と日が射していた。
「帰ったと思ってた」
ロッシの少し髭の伸びた顔が近くにあった。
「今何時?」
「今、10時」
「今までずっとやってたんだ?」
「おう。なんか感覚が戻ってきて、すげえ楽しくなって来た」
そう言ってロッシはにっと笑った。昨夜とは別人みたいな、生き生きとした笑顔だった。目の下にはクマが出来ているけど、その顔は清々しかった。
「アルバム見てたんだ?」
「うん。ごめん勝手に見た」
「ああいいよ」
ロッシはさりげなくそう言ったけど、目はどうだった? って問い掛けている。
「好きだよ」
「あう、え?」
「写真。あたしはロッシの写真いいなって思った」
「そ、そうか?」
ロッシはもじもじ動いて決まり悪そうに言った。あたしは思わず笑ってしまった。
「なに照れてんの?」
「いや、あんまねえから」
「なにが?」
「チーに褒められたことなんて」
「え? そう?」
「ああ俺ダメ出しばっかされてんじゃん」
そう深々と頷くロッシを見て、あたしは心の中で反省した。
あたしは人を批判する事しか知らない父みたいになりたくなくて、褒め上手なミミコやモモを目指しているのに。
「でもほんとに。ロッシにしか撮れないんだろうなあって思ったんだよね」
「そうか? 俺、そんな事思ったことねえぜ」
「そう?」
ロッシは首をかしげた。なんだか、自分が過剰反応しすぎな気がして来て、恥ずかしくなってきた。
本人が発してもいないメッセージを受け取り過ぎて、もう少しで熱弁を奮いそうになった。
「見ていい?」
あたしは暗室を指差した。
「ああ、まだ少しだけどよ」
暗室には沢山のモノクロ写真が吊されていた。
だけど、その写真を一枚一枚見ていくうちに、あたしは確信した。その悲しい光景や風景は、あたしの心を掻き乱した。だけどそれ以上に日常の家族の団欒風景や、子供達の笑顔に、胸が熱くなった。
だから、今度は自信を持ってロッシを褒めちぎった。
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