セキュリティにプレートを見せると、本当にあっさりドアを通してくれた。
最後に泣きそうになりながら振り返ると、ロッシは満足げにあたしを見て頷いていた。本当にロッシにもついて来て欲しかった。
「ほんっとに俺も行きたいんだけど、コレいっこしかないんだよ。くそう。絶対に俺の分もサインもらってきてくれよ?な?」
ロッシがそう言いながらあたしに差し出したのは、本物のバックステージパスだった。スターの楽屋に自由に出入りできるっていう、アレ。
一瞬で心臓が喉元までせり上がってきたような吐き気に襲われた。
興奮しすぎて、嬉しすぎて、最高のプレゼントに感動して、とにかくあたしは目に涙を溜めて金魚みたいに口をぱくぱくさせていた。
「ほーらしっかりしろよっ。会いたかったんだろ?」
立ち上がったロッシに背中をバシっと叩かれて、あたしはやっとうまく息ができるようになった。
ドアを抜けると薄暗い灰色の廊下が続いていた。その突き当たりから仄白い光が漏れていて、機材を運んでいるガタガタいう音とか話し声とか笑い声、それに時々甲高い叫び声が聞こえて来る。
あたしは未だドアを背にして『ハーイはじめまして、あたしミカコです、ライブ、じゃなくってギグ、最高でした。あたし本当にイアンのベースが好きで、だから自分もベース始めてロンドンに来て、今はミルレインボウっていうバンドで』とか一生懸命シュミレーションしていた。
イアン目掛けて今すぐ走って行きたいのか、一生ここでぐずぐずしていたいのか、自分でも分からなくなってしまっていた。こんな時ほど自分の小心者さが嫌な時はない。
ももちゃんに散々えらそうなことを言ってきたくせに、いざ目の前にチャンスが飛び込んで来たら、あたしはもう一気にファンとしてでもなんでもいいからイアンに会いたいって思った。
ももちゃんがジェイミーに遭遇した時、何回も自分に当てはめて考えてみた。
『ももちゃん約束破って』だなんて全く思わなかった。
ただただ羨ましかった。
あたしだって……眠ったままのイアンにでもいいから会いたい。
結局それが本音だった。
歩き方を忘れたみたいにぎこちなくて、ひざが曲がらなくてがくがくしていた。
それでもまだ潔くイアンに向かってる訳じゃなくって……心の中はまだぐちゃぐちゃで、不安の種は尽きる事がない。
その上汗だくになったうす汚れたランニングに、ジーンズとコンバース。化粧直し出来る道具もないし髪は汗で濡れている。鏡を見る勇気が出ないくらいだった。
だめだ、もうキリがない。
はああああっと勢い良くため息を全部出し切ると、その勢いであたしは頭を真っ白にして……本当は頭が真っ白になって……走り出した。
そのまま突き当たりまで行くと、スピードを落とさずに角を曲がった。すると角を曲がった瞬間に人陰が見えて、急いでブレーキをかけたら転んでしまった。
あたしは四つん這いのまま、動けなくなった……だって、そんなの予定外だった。
「大丈夫?」
あたしの目の前には大きな男の人がいた。笑い声や話し声の漏れて来る明るい部屋の入り口の遥か手前。壁にもたれて、手足をだらんと投げ出している。
大丈夫じゃない、大丈夫じゃない、大丈夫じゃない、
「痛い?」
彼は……イアンは、薄暗がりの中で手を差し伸べる訳でもなくあたしを眺めていた。あたしはただ顔を横に振った。痛さなんて、どっかに飛んでった。
さっき考えた挨拶は衝撃で全部どこかへ消えてしまった。一気に全身が冷たくなって、あたしはその姿勢のままただイアンを見ていた。
……イアンまで1メートル足らず……それでもイアンはあたしのことなんてまるで気にしていない。
まだ疲れているらしく、ジーンズに上半身裸で、顔にはりついた髪の毛もそのままに視線をゆらゆらと漂わせている。その右手から少し離れた所に、くしゃくしゃになった黒い物が落ちていた。絶対にさっきステージで着てたランニングだ。
さっき下から見上げてた……あの、イアンだよね。
あたしはそのがっしりした肩とか腕の筋肉とか、分厚い胸に見とれた。肩まで伸びたゆるやかな巻き毛はくすんだ金髪で、ライブで頭を振りまくったそのままなのかボサボサに乱れてるけど、その髪一本一本の乱れ方さえも完璧に見えてくる。
本当にこのまま、時間が止まってほしい。
10秒、20秒くらいたって、やっとイアンがあたしに気付いた。
「立てる?」
イアンが視線をあたしの顔に戻してそう言った。
……イアンがあたしに話し掛けている……ちゃんとあたしの顔を見て。
あたしは答える代わりに頷くと、イアンの向かいに足を崩して座った。少しだけ近付いて。コンクリートがひんやりと冷たい。
イアンが嫌な顔をしなかったから、心の底からホッとした。
イアンは眠そうなとろんとした目であたしを見ている。
たぶん、あたしも同じような目でみつめているんだろう……
|