こうやって向かいに座ってみて、やっとイアンも人間だってことが実感できてきた。
唇から漏れる息で髪の毛の細い束が微かに震えて、くっきりと溝の彫り込まれたような胸板が、ゆっくりと上下している。
「疲れてるの?」
ただ、頭に浮かんだことを言ってみた。宙をさまよっていたイアンの瞳が、またあたしに戻ってくる。
「ああ……もう、ヘトヘトだ」
イアンはちゃんとあたしの質問に答えてくれた。それも、微かに口元に笑みをたたえて。
あたしは、またどぎまぎし始めた。せっかく落ち着いたと思った鼓動が、またすぐにうるさくなってくる。
だってあたし、アノ、イアン・ハンセンと会話しているんだよね。
「ああ……君。いたよね。前に」
その一言で、またさっきみたいに口から心臓が飛び出そうになった。
「え、あ、えと、いた。うん、いたよ。見えてたの?」
「ああ……見える。いつも、全部見えてる」
そうなんだ、ステージから見えるんだ。じゃあ、どれだけノーキングが最高で、あたしたちがどんなに楽しんだかってことも、ちゃんと伝わってるんだ。
「痛かった?」
イアンが唐突にそう言って、さっき転んだことじゃなくってライブのことを言ってるって分かるのに、少し時間がかかった。
「大丈夫、ぜんぜん、平気」
本当は鉄のバーを支える柱に付いていた六角のネジに骨盤がギリギリと当たっていたせいで、まだ右の骨盤がジンジンしている。
そんなことよりも、イアンはあの長い髪の間から、ちゃんとあたしを見ていてくれて、しかも心配までしてくれてたなんて。
頭の中が一秒一秒真っ白に近付いていく。
いっぱい話したいこともあるし、サインももらわなくちゃ、ああ、マジックないし、何に描いてもらおう、とかいろんな事を考えてるようで、ほんとはなんにも考えられなくなっていた。
しばらく沈黙が続いた。本当はイアンは早く独りに戻りたいって思ってるかもしれない。あたしは迷惑がられてるかもしれない。
そんなことも、浮かんでまたすぐに消えた。
「あ、の、イアン」
「ん?」
イアンは首をかしげて、髪の毛ののれんの間から、あたしの顔を見る。
「あ、の、えっと…………ハグしてくださいっ」
なんでだか、どっから出て来たのか、勢い良く飛び出た言葉はそれだった。もう言った瞬間から後悔している。バカミカコっ何言ってんの。
どうしようどうしようどうしよう、頭の中がうめ尽くされていく。
イアンはなんにも言わないし、あたしは怖くて顔を上げられなくなった。気持ち悪い奴、とか思われてるかもしれない。
あたしはなんとか言ったことを取り消したいと思って顔を上げてみた。
……そしたら嘘みたいな光景が目に飛び込んできた。
イアンは、さっきと同じように壁にもたれたまま、両腕をゆるやかに広げていた。
……え?……それって。
あたしは何も考えられないまま、手を前に進めてずりずりと四つん這いでイアンに近付いて行った。
傍まで行くと、イアンが壁から背中を離して、前に出てきてくれた。腕があたしの背中に回される。あたしの思い違いじゃなかった。
気が付くとあたしはイアンに包まれていて、その大きな胸にのしかかるように体を預けていた。あたしの頬は、ぴったりイアンの胸にくっついている。イアンの胸は汗が乾いて、ちょっとぺっとりしていた。それでもぜんぜん嫌じゃなかった。それどころか舐めたいくらいだった。穏やかな鼓動が聞こえる……恐る恐る、イアンの髪に触れてみた。
その手もはねつけられたりはしなかった。
「あ、の、イアン、なんで」
「君が言ったんじゃないか」
そう、そうだった……イアンが小さく笑ったのが、聞こえた。
でもこれ、ハグじゃないよ。だってこれはまるで恋人同士みたいな抱擁じゃない。
あたしはどうしていいかわからなくて、体がこわばってカチカチになっていた。イアンは片方の手であたしの背中を撫でて、もう片方の手であたしの髪を撫でている。
汗いっぱいかいたから、髪もきっとベタベタで、ランニングもまだジットリ濡れてる。イアン、気持ち悪くないのかな、それにあたし臭いかも、
「ねえ、いいの?誰かに見られるかも」
本当は今このまま時間が止まって欲しいって思うけど、これ以上この状況に耐えられる自信がなかった。だってあと1分でもこうしてたら、ただの憧れじゃ済まなくなるに決まってる。
これ以上この気持ちが膨らみすぎないうちに、離れた方がいいに決まってる。
「ああ……そうだな、あいつらうるさいし」
そう言いながらイアンはあたしの頭をくしゃくしゃにした。
イアンがあたしの背中から腕を外して、あたしはおずおずと離れた。自分がそう仕向けたくせに、もうすごく後悔している。今までイアンの触れていた背中がまだ熱い。
イアンはそばにあったランニングを掴んで着ると立ち上がった。
もう行ってしまう……どうしよう、やっぱり離れたくない。
……だけど、まださよならじゃなかった。
イアンはあたしに背中を向けて歩き出すのかと思った。それなのに立ったままあたしをじっと見下ろしている。
あたしも動けずに座ったまま、じっとイアンを見上げていた。
大きな手が伸びて来てあたしの両腕を引っ張って立たせると、イアンはまたあたしを胸にぎゅうっと押し付ける。今度は本当にハグだ。さよならのハグ。
「部屋……来る?」
熱い吐息が、耳元でささやいた。
あたしは、自分がももちゃんに宣言したことも忘れて……ううん、本当は頭の中にしっかりと刻み込まれていたけど。
『ただのファンとして会ったってしょうがないよ』
しょうがなくても後悔しても馬鹿でも、なんでもいい。
そう思った。あたしは大嘘つきだ。
……だって、どうして断れる?
あたしは消え入りそうな声で、イエスと答えた。
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