ライブハウスの裏口はさびれた路地に通じていて、バンの停まっている出口とはまた別
のドアだと分かった。出待ちのファンもスタッフもいない。
あたしは一旦ステージのあったフロアに戻ると、急いでコインロッカーからダウンジャケットを引っ張り出した。ステージは照明が落ちていて、機材も搬出が済んでいたし、ほとんど人はいなかった。
あたしがダウンを着てさっきの廊下に戻ると、イアンも黒いパーカーを着て本当にあたしを待っていてくれた。
少し歩いて通りでタクシーを捕まえる。そこまで、あたしはただ息を詰めてイアンの背中を追い掛けていた。口を開いたら体の中身が全部飛び出すんじゃないかと思う程、もう興奮も緊張もピークに達していた。
イアンはタクシーに乗り込むと行き先を告げたけど、何て言ったのか聞き取れなかった。あたしは本当に自分もそこへ座っていいのか分からなくて躊躇していた。すると、イアンがドアから顔を覗かせてあたしの手を取った。
あたしはイアンの隣に体を滑り込ませて、彼の大きな体に寄り掛かった。その腕があたしの腰に回されているってことは、きっとこうしてていいんだよね。
イアンを見上げると、彼もあたしを見つめていた。
もう、あたしは自分がどんなに間抜けな顔でイアンを見ていても、化粧がなくなっていても、汗でべとべとでも、なんにも気にならなくなっていた。
ただずっと、ずーっとこのままタクシーに乗っていたかった。
イアンの左手が伸びてきて、あたしの髪をくしゃくしゃにする。
嬉しくて目を閉じると目の前が暗くなって、柔らかな感触が唇に降ってきた。あたしが少し口を開くと、当たり前のようにイアンの舌が割って入って来る。
彼がロックスターであたしが凡人でも、彼がイギリス人とスイス人のハーフであたしが日本人でも。
そんなことは取るに足らないことに感じた。
あたしは、目を閉じてその高揚感に身を委ねていた。それから、イアンがあたしの手の届く人間だっていう喜びを噛み締めていた。
少しするとタクシーが揺れて停まった。イアンは顔を離すと開いたドアからあたしに出るように促した。あたしがそれに従うと、イアンもすぐに車から出て、運転手さんにお金を払う。
あたしはここがどこなのか分からなくて、きょろきょろしていた。きっと高級住宅街だろう。
「行こうか」
イアンに腰を押されて歩き出した。すぐ近くにあったフラットに入ってエレベーターで5階に着いた。そのエレベーターの中でも少しキスをした。
イアンの部屋は、御香の匂いがした。
あたしは全部を目に焼き付けようと、部屋を観察する。
イアンはいつのまにかパーカーとランニングを脱いでいて、ぶらぶら部屋を横切ってあたしの視界から消えた。あたしはどうしていいか分からずに、ダウンを着たまま朱色のソファに座って、また部屋の観察を続ける。
部屋はまるでアジア雑貨のお店みたいで、いろんな色が溢れていた。だけど間接照明だけの部屋は薄暗くて全部がくすんで見える。部屋の隅に置かれた小さなテーブルにはロウソク台やアロマキャンドルがたくさんあって、どれも使った痕がある。
あたしにもあのキャンドルたちを灯してくれる?
あたしは、胸で膨らむ核心について必死で考えないようにしていた。
イアン、どうしてあたしをここへ連れて来たの?
一目惚れなんてあるわけがない。だから、今夜限り。
それでもうあたしの事は忘れちゃう? たぶん、きっとそう。
それでもいい?
いくら考えたって、やっぱり答えはイエスに行き着いてしまう。
だってずっと憧れてた、イアンになら遊ばれたって捨てられたって文句は言えない。
本当は彼女になりたくて、愛してるとか言ってほしくてたまらない。
だけど手痛い失恋をたくさんして24歳になったあたしには、なにも知らなかった17歳の頃みたいにまっすぐには願えない。
今まで付き合った何人か、ももちゃんに言わせれば何人も、の男の人と心なんて通
じ合えなかったし、うまくいかなかった。みんな歳も近くてお互いになにか共通
点があった。それでもうまくいかなかった。
所詮は他人なんだし、何を考えてるのか分からなくて気持ちなんか重なるはずがない……それは分かってる。頭では。
でもそんなの寂しい。あたしは誰かと繋がっていたいのに。そう実感したいのに。
「飲む?」
いつのまにか部屋に戻ってきていたイアンが、飲みかけのミネラルウォーターのボトルを差し出す。
「ありがと」
イアンが口を付けた、そう思うだけでまた鼓動が少し速くなる。イアンはあたしの隣に腰を降ろした。
イアンがあたしのそばにいる。そう思うと鼓動はもっと速くなる。
「寒い?すぐに部屋暖まるから」
ダウンを着たままのあたしにイアンは目を細めてそう言った。その心遣いにまた胸が熱くなる。あたしはすぐにダウンを脱いだ。
部屋が寒いのかどうかなんて分からなかった。今あたしに分かるのはひとつだけ……イアンがあたしのそばにいる。
ランニングになったあたしの腕と、上半身裸のイアンの腕がすごく近くにあってときどき触れる。それだけで全神経がそこに集中してしまう。
どうして?
喉元までせり上がって来たその言葉を飲み込む。まだ現実に戻りたくはない。あたしは水をごくごく飲んで、気持ちを静めようとした。
「やる?」
イアンが差し出した人差し指と親指の間には、小さな煙草みたいなものが挟まっていた。
何かはすぐに分かった。マリファナだ。正直、興味がない訳じゃない。だけどあたしはすぐに勢いよく左右に首を振った。今は絶対にいらない。
快楽に身を任せて、薄ぼんやりとこの時間を過ごしたりしたくなかった。
例えイアンがそうしたいんだとしても。
傷付くとしても、イアンはすぐに忘れてしまうとしても。あたしはこの今のキリキリする胸の痛みも、目眩も、なにもかも全部をなるべく長い間記憶に留めておきたいと思った。
「そう。じゃあ俺もやめとくよ」
イアンはそれをテーブルに置いてそう言った。
あたしに合わせてくれたのかも、なんて思うとまた希望が少し育ってしまう。
「シャワー浴びようか」
イアンがそう言ってあたしの右腕を掴んだ。
浴びてくる、でも浴びれば?でもなく。
初対面でシャワーを一緒に浴びたことなんて一度もない。また心臓が口から飛び出そうになる。
それでもイアンがそうしたいなら、あたしには拒む資格なんかなかった。
きっとイアンは、あたしが嫌だって言えばあっさり一人でシャワーに向かうだろう……そう分かってる。
それでも、今のあたしはイアンに服従するしかなかった。だからあたしはイアンに笑顔で答えると立ち上がった。
そのままイアンに導かれてバスルームに行く、イアンはバスルームに体半分入ってシャワーを出すと、あたしのランニングに手をかけた。あたしが両腕を上げると、それはゆっくりと顔の前を通
過していく。
次に見えたのはイアンの優しい顔だった。
すごく自然にイアンの顔が近付いてきて、またキスをする。
もう、とろけそうだった。
そのキスの間、イアンの手があたしの背中を触って、ストラップの無いブラジャーが床に落ちた。
イアンはキスをやめて、あたしを見下ろす。あたしは無意識のうちに胸の前で腕をクロスしていた。イアンは微笑みながらその手を掴んで降ろした。その力はすごく優しかったけど、やっぱりあたしはされるがままだった。
イアンの笑顔があたしだけに向けられている。
「かわいいよ」
イアンはそう言うと、あたしを抱きしめて首筋にキスする。あたしはもう、早くイアンとそうなりたいと思っている。体の中で熱い塊が膨らんでいく。イアンも同じように感じてるのかもしれない。
「これ、なに?」
イアンがあたしのおしりに触って、ジーンズのポケットに入れていたデモテープを見つけた。
「あ、それ。あたしのバンドのテープ。聞いてくれる?時間のある時でいいから」
「ああ。もちろん……バンドやってるんだ?」
「うん……」
あたしが答えるかどうかで、またキスが降ってきた。イアンがジッパーに手をかけてあたしの足元にジーンズが落ちた。あたしも同じようにイアンのボタンフライに手をかける。
あたしはもうこういう時にどうすればいいのか、ちゃんと分かっている。ふたりとも裸になってシャワーを頭からかぶった。
頭からぬるいお湯をかぶると、少し塩辛い味がした。
イアンがあたしの髪に指を通して、前髪を後ろに掻き上げた。
バスルームは殺風景で、シャンプーとコンディショナーとボディーシャンプーのボトルがあるだけだった。イアンはボトルからシャンプーを手に取ると、あたしの髪にそれを撫で付けた。そして、あたしの頭を洗い始めた。あたしはただされるがままで、イアンをみつめていた。
男の人に頭を洗ってもらうのなんて初めてだった。そんな優しい人はいなかった……イアンの指が、あたしの頭をゆっくりマッサージする。あたしはその間、イアンの顔をじっと見ていた。その顔に少しでも彼の本音がにじみ出ていないか、観察していた。
もしかしてあたし、愛されてるのかも。
なんてことを本当に考えてしまうくらいに、イアンは優しい微笑みを浮かべていた。だけどあたしの目にはきっと都合良くしか映っていないはず。そう思って必死でそれを打ち消した。
「目を閉じて」
言われた通りにした瞬間、勢いよくシャワーが掛けられた。次にちゃんとコンディショナーもして流してくれる。
「出来上がり」
イアンはそう言って笑う。綺麗な真っ白い歯が覗いて、あたしの心臓はきゅうっと音を立てて縮んだ。
「じゃああたしも」
そう言うと、イアンは頷いてバスタブの縁に腰掛けた。イアンと目線が同じになる。あたしはシャンプーを手に取ると、イアンの濡れた髪を洗い始めた。頭をくまなくマッサージして髪も丁寧に洗った。
「上手だな、気持ちいいよ」
イアンは本当に気持ち良さそうに目を閉じる。
「流すよ」
そう言ってあたしはイアンにシャワーを浴びせた。
それからお互いに体を洗った。イアンも一目瞭然で、もうそうなりたいのがわかる。男の人の体は分かりやすいところがいい。そう改めて思った。
「もう、出ようか」
イアンがあたしの肩を指でなぞってそう言った。すぐにふんわりしたタオルに包まれる。
イアンは、イアンは一体どうしてこんなにもして欲しいことをさらっとしてくれるの?
そう考えたら胸がちくっとした。そんなの決まってる。それはたくさんの女の子と過ごしたから。
あたしが特別な訳じゃない。そう何回も言い聞かせる。
もしも、なんて考えちゃいけない。
何度も何度もキスをした。乱暴にだったり、触れるか触れないかのじれったいキスだったり。
そのどれも全部があたしを満たした。それなのによけいに苦しくなる。
|