何度も抱き合ってお互いの形を確かめながらベッドに辿り着いた時、いつのまに拾ったのかイアンは手にさっきのデモテープを持っていた。それをコンポにセットする。
「え、ちょっと待って、今聞くの?」
「ああ」
イアンはあっさり答えて、手を止めようとはしない。
だって、自分達の演奏を聞きながらセックスするなんて、気恥ずかし過ぎる。
それに憧れのロックスターが、あたしやももちゃんの作った曲を聞いて、何か評価したり判断を下したり、それとも何も気に留めないかもしれない。
今の状況と合わせたふたつのプレッシャーに耐えらる自信がなかった。
それでもあたしは戻って来たイアンにされるがままに、ベッドに沈められた……イアンが首筋にキスする。濡れた髪の毛が覆い被さって、目の前が真っ暗になる。
曲のイントロが流れて、あたしのベースが鳴り始める。
「君は何をやってるの?」 あたしの頬にキスして、イアンが耳元で囁いた。
「ベース」
はっきり答えたつもりだったけど、喉がからからで出て来た声はしゃがれていた。
「そうなんだ」
イアンの声もしゃがれていた。イアンはあたしの頬や首筋にキスしたり、耳を優しくかじったりする。
イアンの髪の毛の檻の中で、あたしはシャンプーの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。マリファナなんかなくても、これだけで充分夢の世界に導かれて行く。
檻の外では、一曲目が終わろうとしていた。
突然、イアンが体を起こして、冷たい髪の毛がざばっと顔を撫でて行った。
あたしの目に天井が飛びこんで来る。
イアンはあたしから離れると、ベッドから下りてそのまま部屋を出て行った。あまりにも突然で、何が起きたのか分からなかった。
あたしは仰向けのまま、イアンを待っていた。
少し考えてすぐに分かった。イアンはコンドームを取りに行ったんだ。
そのままイアンを待った。
バスルームの方で物音がして、イアンの足音が近付いてきた。
顔を起こしてイアンを見ると、今度こそ本当に、なにがなんだか分からなくなった。
イアンはコンドームを取りに行ったんじゃなかった。
「な、んで……」
イアンは服を着ていた。さっきまで履いていたジーンズ、あたしがボタンを外したジーンズと新しいTシャツ。
イアンはゆっくりとあたしの方へ近付いてくる。腕にはあたしの服を抱えて。
自分だけ裸なのに違和感を感じて、あたしはバスタオルを体の前に掻き集めた。
「これ、着て」
イアンはベッドに腰掛けると、あたしに服を渡した。その表情は堅くて、もうさっきみたいな優しい微笑みをあたしに向けてくれることはなかった。
あたしの目も見てくれない。
「ど、うして?」
もう、咽が震えて、声が思うように出ない。
やだ、涙出そう。
泣いてセックスを懇願するなんて、そんなこと絶対にしたくない。だけど、もう少し一緒にいれるって信じ切っていた。それなのに。
「早く着て。頼むから」
イアンはそう言ってあたしに背中を向けた。
どうして?どうして?どうして?
心の中では声の出る限り叫んでいた……それなのに、何も言えなかった。
あたしは言われたままに、ランニングを被ってジーンズも履いた。涙で目が曇ったけど、服の裾で拭った。イアンの背中をみつめる。
スピーカーから3曲目の『GO』が流れていた。明るくて楽しい曲。
空しくなってまた涙が浮かんでくる。
あたしはどうしようもなくなって、イアンに近付くとその背中にしがみついた。
「イアン、あたし、なにか悪いことした?」
イアンはもうあたしの手も取ってくれないし、こっちも見てもくれない。
「いや、君は悪くないよ」
「じゃあ、どうして」
今この部屋にはイアンとあたししかいないのに……あたしが悪くない訳なんか、ないよ。
しばらくの沈黙の後、やっとイアンがあたしの腕を掴んで体をこっちに向けた。あたしの両手を掴んでベッドに置く。その上に自分の手を重ねて。
「君とは、できないよ」
イアンはまっすぐにあたしの目を見つめて、そう言った。
今度こそ本当に、もうなにも言えなくなった。
あたしとは、できない、したくない。
「送るよ」
イアンは最後まで優しかった。
元来た通りまで戻ると、イアンはタクシーを捕まえる。
「この子の家まで送ってあげて、残りはチップで」
そう言って運転手さんにお金を渡した。
「イアン」
あたしは、イアンのTシャツの裾を掴んで立ち止まった。
「さあ、乗って」
イアンは、優しい顔であたしを見下ろした。
「もう1回だけ、ハグして」
そう言うとイアンは困った顔をしたけど、ハグしてくれた。今度はギュウっと力強く。友達みたいに。
「ベース、すごくメロディアスで綺麗だった。音に少しムラがあるから、揃えられるよう練習すればいいよ。そしたらもっとよくなる……そんなに神経質になることはないけどさ。俺もギグじゃめちゃくちゃになるから。君たちまだ基礎は甘いけど。きっと、もっといいバンドになるから」
イアンが耳元でそう言って、あたしはまたびっくりした。イアンはあの短時間で、ちゃんとあたしのベースを聞いていてくれていたなんて。
あたしはまたなにも言えなくなって、ただイアンを見上げていた。
「さよなら」
そして、イアンはあたしから離れた。
「さよ、なら……あの、」
「ん?」
イアンは首をかしげる。
「あ、の、また、会える?」
往生際が悪い。そんなこと分かってるけど、でも、どうしても聞かずにはいられなかった。
「そうだな……きっと、いつか会えるよ」
そう言って微笑む。またここへ来てもいい。そういう意味じゃないことはあたしにも分かった。それでも、そう言ってくれただけで少しは息がしやすくなった。
「じゃあ、ね。さよなら」
「さよなら」
最後に、イアンはあたしのまだ濡れている髪をくしゃくしゃにした。
「ありがとう」 そう言ってあたしはタクシーに乗り込んだ。ドアが閉まって、タクシーが発車する。
「どこまで?」
「ハマースミス」
そう答えると、あたしは後ろを振り返って、イアンを探した。
もちろん、もうそこにはいなかった。
「優しい彼氏だね。それに気前もいいねえ、あ、れ。大丈夫かい?」
イアンがお金をいくら渡したのか分からないけど、運転手のおじさんは上機嫌だった。だけど、もうあたしの我慢は限界に来ていた。
涙がとめどなくこぼれる。もう、拭う気力も残っていない。ここまで、涙を落とさなかった自分が信じられなかった。
シートに体を深く沈めて、涙が流れるままにまかせた。
わからない、わからない、どうしてなの? あたしの何がダメだったの……
体? ベース? あたし自身? イアンは、なんにも繋がらせてくれなかった。
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