ロックンロールとエトセトラ  
  2月 コンシダレイション
consideration/ REEF
 
   
  #7 カモミールティー ミカコ
 

「ミミコ、入ってもいい?」
 ドアの外で、チコの声がした。起き上がる気力がない。
 あたしは、タクシーに乗ってる間も誰もいない家に返ってからも、止まらない涙を流し続けていた 。
 ティッシュボックスを抱えて何回涙を拭いても鼻をかんでも、終わりはなかった。
「ミミコ?寝てる?」
 ドアが少し開いてチコの顔が覗いた。チコはあたしを見つけて、目を見開いた。
「ミミコ?どうしたのッ」
 そのまま部屋に勢い良く入ってきて、ベッドにどすんと座る。
「ギグ、行ったんだよね?」
 あたしは、ただ頷いた。
「今スナッグに行ったらロッシがいたから。ミミコ、バックステージパス、もらったんだよね?」
 あたしは黙っていた。
「なんか……あった?会えた?イアンに」
 イアン、イアン……
「チコー、もうあたし、だめだよ、」
「え?ミミコ、何があったの」
 あたしはチコにしがみついて、そのまま泣き続けた。

 チコは聞き出すことを諦めて背中をさすってくれる。少しでも動くたびに、髪の毛からイアンのシャンプーの匂いがする。涙を拭おうとこすりつける手の甲から、イアンのボディシャンプーの匂いがする。
 あたしはたくさん泣いた。こんなに泣いたのがいつだったのか、覚えていないくらいに。今までだって失恋はたくさんした。
 だけど、それのどれとも違う。
 拒絶されるのは、つらい。
 わからない、わからないよ。途中でやめるなんて。
 それにイアンは優しかった……最後までずっと。
 もっと酷く追い払ってくれればよかったのに。
 あんなに優しくされたら、よけいにつらいよ。

「ミミコ、もう寝たら?疲れたんじゃない?ね?」
 チコが部屋を出ると、今度はももちゃんが手にマグカップを持って戻ってきた。ふたりがすごく気を遣ってくれているのが分かる。
「これ飲んで、ね」
 甘い花の香りがする。
「カモミールティー?」
「ミミコ、それ飲むと落ち着くって、言ってたじゃない?」
 ももちゃんが言う。
「うん。ありがと」
 ふたりが優しくてまた泣けてくる。たっぷりとカモミールの香りを吸い込んで、あたしは落ち着こうとした。ほんの少しだけ、落ち着くような気がする。

 あたしは、ももちゃんに言われた通りに横になった。
 時計が見ると12時だった。ギグが終わったのが、9時だっけ…… 「大丈夫?」
 ももちゃんが心配そうに顔を覗き込んでいた。
「ありがと……大丈夫。明日は遅番だから。ゆっくりするよ」
 ふたりが心配してるのがひしひしと伝わってくる。だけど、まだ何も話せない。
 あたしはタオルケットに潜り込んだ。またイアンの匂いがする。
 それでも、シャワーをもう一度浴びて洗い流したりできなかった。
 イアンの匂いに包まれていれば、いい夢が見れるかもしれない。

 イアン……イアン……

  ***

 玄関の呼び鈴が鳴って目が覚めた。時計は2時。
 ふたりとも出掛けて家にはあたしひとり。起き上がる気がしない。
 ベルを無視することに決めて、知らんぷりしていた。何回か鳴って、音は止まった。  ふと思い出した。そうだ、今日はドロシアが来る水曜日だった。でも、今のはドロシアじゃない。彼女ならこの家の鍵を持っているから、誰もいなくても掃除を済ませて帰って行くはず。そういう約束になっている。
 ベッドに体を起こす。頭が重い。おでこに重りを張り付けているみたいに感じる。目の周りがピッと突っ張ってるし、のどもカラカラだった。全身の水分が全部涙で出て行ってしまったらしい。

 コツコツと窓ガラスを叩く音がして、驚いた。
 雨戸のない出窓で、あたしの部屋は裏庭に面した一階にある。人影が見えた。
 誰?
 眠り過ぎてぼやけた目じゃ、誰なのか認識できなかった。 目をぐりぐりこすって、やっとはっきり見えてきた。それでも誰なのか分からなかった。

 大きくて、髪の長い男の人が右手を挙げている……心臓がどくんと飛び跳ねて、勝手に体が動いた。
「イアンッ」
 ベッドから裸足で走ると、窓を引き上げて身を乗り出した。
 だけど……目の前にいるのはイアンじゃなかった。
 髪は長いけど肩に付くくらいで、金髪じゃなくてブラウンで、めがねをかけている。   ……誰だっけこの人……知ってるような気がするんだけど。

 涙で曇った目でも、それがイアンじゃないことはよく分かった。

 
 

#6#7

 
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