「ミミコ、入ってもいい?」
ドアの外で、チコの声がした。起き上がる気力がない。
あたしは、タクシーに乗ってる間も誰もいない家に返ってからも、止まらない涙を流し続けていた
。
ティッシュボックスを抱えて何回涙を拭いても鼻をかんでも、終わりはなかった。
「ミミコ?寝てる?」
ドアが少し開いてチコの顔が覗いた。チコはあたしを見つけて、目を見開いた。
「ミミコ?どうしたのッ」
そのまま部屋に勢い良く入ってきて、ベッドにどすんと座る。
「ギグ、行ったんだよね?」
あたしは、ただ頷いた。
「今スナッグに行ったらロッシがいたから。ミミコ、バックステージパス、もらったんだよね?」
あたしは黙っていた。
「なんか……あった?会えた?イアンに」
イアン、イアン……
「チコー、もうあたし、だめだよ、」
「え?ミミコ、何があったの」
あたしはチコにしがみついて、そのまま泣き続けた。
チコは聞き出すことを諦めて背中をさすってくれる。少しでも動くたびに、髪の毛からイアンのシャンプーの匂いがする。涙を拭おうとこすりつける手の甲から、イアンのボディシャンプーの匂いがする。
あたしはたくさん泣いた。こんなに泣いたのがいつだったのか、覚えていないくらいに。今までだって失恋はたくさんした。
だけど、それのどれとも違う。
拒絶されるのは、つらい。
わからない、わからないよ。途中でやめるなんて。
それにイアンは優しかった……最後までずっと。
もっと酷く追い払ってくれればよかったのに。
あんなに優しくされたら、よけいにつらいよ。
「ミミコ、もう寝たら?疲れたんじゃない?ね?」
チコが部屋を出ると、今度はももちゃんが手にマグカップを持って戻ってきた。ふたりがすごく気を遣ってくれているのが分かる。
「これ飲んで、ね」
甘い花の香りがする。
「カモミールティー?」
「ミミコ、それ飲むと落ち着くって、言ってたじゃない?」
ももちゃんが言う。
「うん。ありがと」
ふたりが優しくてまた泣けてくる。たっぷりとカモミールの香りを吸い込んで、あたしは落ち着こうとした。ほんの少しだけ、落ち着くような気がする。
あたしは、ももちゃんに言われた通りに横になった。
時計が見ると12時だった。ギグが終わったのが、9時だっけ…… 「大丈夫?」
ももちゃんが心配そうに顔を覗き込んでいた。
「ありがと……大丈夫。明日は遅番だから。ゆっくりするよ」
ふたりが心配してるのがひしひしと伝わってくる。だけど、まだ何も話せない。
あたしはタオルケットに潜り込んだ。またイアンの匂いがする。
それでも、シャワーをもう一度浴びて洗い流したりできなかった。
イアンの匂いに包まれていれば、いい夢が見れるかもしれない。
イアン……イアン……
***
玄関の呼び鈴が鳴って目が覚めた。時計は2時。
ふたりとも出掛けて家にはあたしひとり。起き上がる気がしない。
ベルを無視することに決めて、知らんぷりしていた。何回か鳴って、音は止まった。
ふと思い出した。そうだ、今日はドロシアが来る水曜日だった。でも、今のはドロシアじゃない。彼女ならこの家の鍵を持っているから、誰もいなくても掃除を済ませて帰って行くはず。そういう約束になっている。
ベッドに体を起こす。頭が重い。おでこに重りを張り付けているみたいに感じる。目の周りがピッと突っ張ってるし、のどもカラカラだった。全身の水分が全部涙で出て行ってしまったらしい。
コツコツと窓ガラスを叩く音がして、驚いた。
雨戸のない出窓で、あたしの部屋は裏庭に面した一階にある。人影が見えた。
誰?
眠り過ぎてぼやけた目じゃ、誰なのか認識できなかった。 目をぐりぐりこすって、やっとはっきり見えてきた。それでも誰なのか分からなかった。
大きくて、髪の長い男の人が右手を挙げている……心臓がどくんと飛び跳ねて、勝手に体が動いた。
「イアンッ」
ベッドから裸足で走ると、窓を引き上げて身を乗り出した。
だけど……目の前にいるのはイアンじゃなかった。
髪は長いけど肩に付くくらいで、金髪じゃなくてブラウンで、めがねをかけている。
……誰だっけこの人……知ってるような気がするんだけど。
涙で曇った目でも、それがイアンじゃないことはよく分かった。
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