「悪いね、起こして」
少しの沈黙の後彼が口を開いた。『イアン、』については何もなかったように。
その人は、大して悪く思ってもなさそうにそう言った。
「はあ、」
あたしは気の抜けた返事を返した。自分の勘違いでまたよけいに胸をえぐってしまった。
あたしにはこの人が誰なのか、何をしにきたのか、さっぱり見当が付かない。
「祖母にあの部屋の掃除を頼まれたんだけど、入れてもらえるかな」
部屋……祖母。
ああそうだ、この人ドロシアの孫だ。そうだ、ももちゃんがいなくなったあの日にもドロシアと一緒に来てたっけ……名前は……思い出せない。
あたしはスリッパを履いてのろのろと玄関に向かうと、彼を家に通した。
昨日帰って着替えたままのキャミソールとジャージにパーカーを羽織って、きっと髪も寝癖で爆発しているだろうけど、そんなのどうでもよかった。
「どうも、じゃあ、終わったら言うから」
「うん」
彼はそのまま階段を上がって行く。
その部屋っていうのは、ドロシアと亡くなった御主人のベッドルームで、この家を格安で貸してくれたのも、取り壊さずにその部屋を保存したい為だった。契約の中に、その部屋に勝手に入ったりしないことと、毎週水曜日にそこを彼女が掃除に来る、っていうのも含まれていた。もちろんあたしたちはちゃんとそれを守っていた。
ドロシアと御主人みたいに、強い絆で結ばれるっていうのは、どんな気持ちがするんだろう?
あたしはそのままリビングのソファにドサっと腰を下ろした。
咽、乾いたな。
やかんを火にかける。ポットにカモミールティーの葉を入れて、コンロの前でお湯が湧くのを待つ。
ポットにお湯をそそぐと、キッチンに甘い香が広がった。
「大丈夫?」
いつのまにかキッチンの入口にドロシアの孫が立っていた。あたしはコンロの前に座り込んで、ただいろんな考えを漂わせていた。
「大丈夫?」
彼はまたそう呟いて、あたしに近づいてくる。
どうしてそんなにこわばった顔をしてるのか、その時やっと分かった。
あたしのダムはまた決壊して、涙が止まらなくなっていた。
「あ、ごめん、大丈夫だよ」
とりあえずそう言うしかなかった。
「立てる?」
「うん」
そう答えたものの、おしりが床に磁石でくっついてるみたいで、腰が上がらない。それに、べつにこのままここに座っててもいい。
そう思った時、急に体が軽くなってあたしはリビングのソファに瞬間移動していた。
彼はあたしの腕を引っ張り上げて立たせてくれると、そのまま背中を押してあたしを歩かせた。そしたらあっというまに辿り着いていた。
彼が部屋を出て行ったからそのまま帰ったと思ったのに、またすぐにさっきあたしが用意していたポットとカップを持って戻ってきた。ちゃんと自分の分も持って。
無言であたしの隣に腰を降ろす。
ずうずうしい人だとは思わなかった。なぜか今は、名前も思い出せないこの人がそばにいるのが、楽だった。
独りでいたくないけど1人でいたい。そういう今の状況にすごく合っているのかもしれない。
「ありがとう」
彼はお茶を注いだカップを渡してくれる。あたしは昨日みたいにカモミールの香りを胸一杯に吸い込んだ。いつのまにか涙は止まっていた。
「……ねえ、ドロシアはどうしたの?具合でも悪いの?」
ふと湧いてきた疑問を呟いた。
ドロシアが部屋の掃除を他の誰かに頼んだなんて、ただ事じゃない。
「いや、元気だよ。昨日からグラストンベリーの友達の家に行ってるんだよ」
その時気付いた。彼はさっきからカップを何回も持ち上げてはテーブルに置いて、を繰り返している。
「カモミール苦手なの?」
「いや、初めてなんだ」
「なにか違うの飲む?」
「いや、これが飲みたい」
そう言う顔は妙に真剣で、どう見ても飲みたいようには見えない……こっそりと観察していると、彼はついにカップに口を付けた。
「……ああ、こういう味なんだ」
真剣な顔でそう呟くと、まるで研究者みたいに慎重に飲み始めた。
「ミカコこれ好きなんだ?」
いきなり名前を呼ばれてあたしは目を丸くした。
「祖母が、よく君の話をしているから」
そうなんだ。そういえばドロシアもときどき孫の話をしてた。そう、大学生で、ドロシアにも彼女から話を聞いたあたしにも、なんだか解らないような難しい研究をしてる……
「アンディ」
「なに?」
うん、そうだ、アンディだ。
「ねえ、ドロシアはいつ帰って来るの?」
ドロシアに早く話を聞いてほしい。ドロシアならきっと、何かあたしに理解できる説明をしてくれる。
「いつも、あの農場に行くと、一週間の滞在が一ヶ月にも延びたりするから。はっきりとはわからない」
「一ヶ月?そんなに待てないよ」
「祖母に、急ぐ用でもあるの?」
アンディはまたカップに口をつけてあたしを見た。
「相談?」
あたしは頷くと、クッションの丘にもっと埋もれた。
どうしようドロシア、こんなのあたしの頭じゃ理解不能だよ。
「とりあえず、僕に話す?」
ソファの反対側から、意外な言葉が飛んできた。
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