ロックンロールとエトセトラ  
 

3月 グッドイナフ
goodenough / dodgy

 
   
  #2 ノーワンエルス イチコ
 

「ミスターベネット。あのね」
 なんだか緊張していた。

 ノーワンエルスはハマースミスの駅を挟んで、家とは反対側にある小さなレコードショップで、あたしはここでオーナーのミスターベネットとふたりっきりで働いている。
 壁には薄汚れたバンドTシャツが何枚も額に入れて飾ってあって、どれにもマジックでサインがしてあった。そこにはプレートが付いていて、年代と名前が刻まれている。
  中にはセックスピストルズのシドに、マニックストリートプリーチャーズの失踪したギタリスト、リッチーのものまであった。どう頼んでもサインなんて絶対にしてくれなさそうなのに。それにいくつかのシャツには所々茶色いシミがあって、どう見ても血だと思った。
 いつか、ミスターベネットの武勇伝を聞きたいと思っているけど、彼は無口であたしが話し掛けても一問一答にしかならない。
 あたしには、彼が映画『ハイ・フィデリティ』のジョン・キューザックに重なる。痩せ形でブラウンの目と髪、くせで少しカールした髪は短くもなく長くもなく。特徴があるとすれば、顎を覆ったもじゃもじゃの髭だ。そのせいで、本当の輪郭がよくわからないほどだ。
 お客さんの誰かと話しているのも見た事がないし、あたしとも話してくれそうにない。きっと、ロックおたくだ。

 ここを初めて見つけた時、まるで宝箱を見つけたみたいな気持ちになって、あたしは取り憑かれたように毎日通 った。まだロンドンにも慣れていなくて英語も不安で、そんなあたしが独りでも来れる唯一の場所だった。レコードを買えるお金なんてもちろんなくて、だけどなんだかまた行きたくなって、棚のレコードを引き出してはじっくり見ると戻して、を繰り返していた。日本の中古CD屋と同じくらい小さな店なのに、いつ行っても必ず5人以上のお客さんがいた。
 仕事がなかなか見つからなくてへこんでいた時、ミスターベネットがあたしに話し掛けて来た。今思えばあれが一番長い会話だった。
「レコード、好きなのか?」
「うん」
「仕事は?」
「してない。見つからなくて」
「じゃあ、働くか?」
「え、どこで?」
「ここでだ。日曜日と月曜日が休みで12時から7時まで、週105ポンドでスタートだ。後は働きによって考える」
 もちろんすぐに返事をした。給料は、今ではもう少しよくなった。
「どうした? 辞めたいのか?」
 ミスターベネットは、無表情のまま言った。
「ちがうよちがうっ、そうじゃなくって。じつは、これ、置かせてほしいんだけど」
 あたしは、鞄から日曜日に徹夜で作ったフライヤーとデモテープを出した。デザインとイラストは絵の得意な2人に任せて、あたしはひたすらMTRから音源をカセットテープに録音し続けた。
 そして昨日は休みのモモと一緒に、コピーしたフライヤーとデモテを持ってライブハウスや小さなレコードショップ、それにパブや古着屋や雑貨屋をたくさん回った。もちろん門前払いに合ったところもたくさんあったし、フライヤーすら置いてもらえない所もたくさんあった。だけど、そういう所ではスタッフの人に無理矢理デモテープを押し付けて帰って来た。
 当然甘くはなくて、フライヤーだけを置いてくれたのは5件。デモテープを置かせてもらえたのは2件だった。カムデンにある『ジェフリーチューブ』っていう小さなレコード屋と、『ソックス』っていう雑貨屋さん。
 ジェフリーチューブでは売り上げの40%を店のものとするっていう条件なら置いてもいいと言ってくれた。デモテは3曲入りで1ポンドだし、儲けなんてないに等しいけど、そんなことはどうでもよかった。ライブに足を運んでくれるきっかけになればいい。とりあえず10本渡す事ができた。
 ソックスではその場でテープを聞いたスタッフのダニーが気に入ってくれて、快く置かせてくれた。
 後は、押し付けて来たデモテープが20本近く。それを彼らが捨てるのか、個人的に楽しんでくれるのか、それともオーナーになにか言ってくれたりするのかは分からない。
 とにかくあたしたちは、持てる全ての社交性を出して一生懸命ドアを叩き続けた。

「だめだ」
「え?」
 即答だった。
 ミスターベネットがこの店に何を置くのかすごくこだわっていているのは知っていた。絶対に気に入った物じゃないと置かないことも知っていた。だけど、そこまできっぱりと断られるとは思っていなかった。
「ちょっと待ってよちゃんと聞いてよ。聞きもしないで撥ね付けるなんて、ひどいよ」
 あたしはボスに食い下がった。
「俺が半端な物は置かないこと、知ってるよな?」
 ボスは薄いブラウンの目であたしを見据える。
「うん」
 あたしはごくっと息を飲んだ。
「よし。じゃあ聴いてみよう」
 そう言うといきなり、店内にかかっていたフランツ・フェルディナンドのレコードを止めた。
  そしてコンポにミルレインボウのデモテを差し込む。まさかいきなりそう来るとは思っていなくて内心ビクついていたけど、大口を叩いてしまったから、あたしは余裕を装っていた。

 
 

#1#3

 
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