ロックンロールとエトセトラ  
 

第1章 オトメとエトセトラ-3

 
   
  1996年   5月 キタモトモモカ  
 

 お兄ちゃんは、優しくてかっこよくて、いつもあたしの自慢だった。
 それが、ある日から変わってしまった。あんなに毎日弾いていたギターも弾かなくなって、急に無口になってしまった。それまではいつも友達がうちに集まっていたのに、みんなだんだんと来なくなってしまった。
 それから何ヶ月かたつと、部屋から出てこなくなって、学校へも行かなくなってしまった。
 でも、あたしはそれでもお兄ちゃんが大好きだった。
 きっとそのうちまた元気になって、ギターを弾きながら歌ってくれるって信じていた。きっと友達と喧嘩しただけだろうって……
「俺もそれを考えてた。ひとつだけ……思い当たるけど……だけど、俺はずっとそれが原因だなんて、信じたくないと思ってた。だってそんなの……納得したくないんだ」
 セイくんは苦しそうにそう言った。
「教えて?なにがあったの?」
 ずっと、ずっと誰にも聞けなかった。お兄ちゃんのことを話すのは、家で禁止されていた。そう言われた訳じゃないけど、お兄ちゃんの話をしようとするとお母さんがどうしようもなく悲しい顔をするから、あたしは何も聞けなくなってしまう。
「カート・コバーンが死んですぐに、俺の同級生が後を追って死んだんだ。ヨウスケさんもそいつと仲よくて。俺も、みんなも、すごくショックを受けたよ。でも、その誰よりもヨウスケさんの落ち込みは酷かったんだ。カートを、ニルヴァーナをあいつに教えたのは俺だって」
「カート・コバーン?」
「知らない?」
「知ってる、アメリカのバンドの人だよね?お兄ちゃんの部屋にポスターのあった」
「そうだよ……彼が死んだのは、知ってる?」
「そうなの?」
 話は……あたしの思ってもみなかった方向へ進んで行く。
「彼が自殺して、94年の4月7日に発見された、次の日には世界中のニュースになった。俺の友達は、その次の日に死んだんだ……俺、その日の午前中に会ったんだ、学校で。あいつがすごいカートのことを崇拝してるの知ってたし。心配だった……思った通 り落ち込んでた……でも、まさか後を追うだなんて、思ってもみなかった」 「本当に、原因は、それだったの?」
「ああ……遺書にもそうあった、って」
 自分の憧れの人が自殺したら……あたしも死にたくなるんだろうか?
 考えてみたけど、あたしにはそんなにも好きな人なんていなくて、やっぱり分からなかった。
「お兄ちゃんは、それで様子がおかしくなっちゃったんだね。部屋にも入れてくれなかったし、出てこなくなって、学校へも行ってなかった……」
「ももかちゃんの家に電話しても、電話、取次いでもらえなかった」
「うん、電話があってドアをノックしても、お兄ちゃんは出てこなかったから」 「俺、ずっと認めたくなかった……だけど、もう、認めなくちゃいけないのかもしれない」
 あたしも、もう気付いていた。
 だって、お兄ちゃんが死んだのは……4月5日。お兄ちゃんは1年間苦しんで、そして決めたんだ。それがカート・コバーンのためだったのか、その友達の為だったのか、自分の為だったのかは、わからない。
「俺には、理解できないよ」
 セイくんはそう言った。その目は赤かった。
「俺は……死ぬなんて、そんなこと、怖くてできないよ……臆病者だから」
 その言葉は、あたしを優しく包み込んでくれた。
「あたしも、できないよ」
「ああ。できないよな、そんなこと……絶対に」
 セイくんはにっこり笑った。あたしも笑ったつもりだったけど、それでも涙が止まらなかった。セイくんは困った顔をしてから、ぎゅっと強く抱き締めてくれた。

 去年の4月5日。
 お兄ちゃんは両方の二の腕と手首を切って、ベッドに横たわっていた。
 お母さんが見つけて金切り声を挙げた。ちょうど夕食の後で、あたしとお父さんはリビングでテレビを見ていた。すぐにふたりで階段を駆け上がって行った。  お母さんは、お兄ちゃんの部屋の中で狂ったように泣叫んでいた。そんなふうなお母さんを見たのは初めてで、あたしは部屋のドアの前で足がすくんでしまった。お父さんはそのまま勢い良く部屋の中に入って行った。
「モモカッ、来るんじゃないッ、下へ降りてなさいッ」
 お父さんが強い口調でそう言った。あたしはまだ一体なにが起こっているのか分かっていなかった。だけど、なにかが起こったことは、キリキリと感じていた。
 言われたように一階に降りようとしても、足が冷たい石になって床に張り付いているせいで、出来なかった。
そして、開け放たれたドアから全てが見えた。
 お兄ちゃんの真っ白い腕と、トマトジュースをぶちまけたようなベッドカバー。

 最後に見たお兄ちゃんは、棺桶の中で白い服を着ていた。お兄ちゃんの顔は少しも苦しそうじゃなかった。安心したような、なにかいいことがあった日に眠っているような、そんな安らかな顔だった。
 みんな泣いていた。お父さんもお母さんも、親戚もお兄ちゃんと同じ学校の制服を着た女の子も男の子も。
 だけど、あたしはもうどうすれば涙が出るのかも分からなかった。食べ物の飲み込み方も、息の仕方も、なにもかも忘れたみたいだった。
 遺書にはただ『みんなありがとう。俺はもう楽になりたい。ごめんなさい』とだけ書かれていた。
 あたしはずっとずっとお兄ちゃんに問いかけてきた。
 あたしは、お兄ちゃんがどうして死を選んだのか知りたかった。誰にも聞けなかった。それに、すごく怒っていた。
 あの日からお母さんもお父さんも笑わなくなって、あたしは透明人間になった。  全部お兄ちゃんのせいだ。
 自分だけあんな幸せそうな顔で眠って、後に残されたみんなの悲しみなんて、どうでもよかったの?
 それに、カート・コバーンっていう人にも怒っていた。あんたが死んだりしなければ、その友達だってお兄ちゃんだって、きっと今もギターを弾いて毎日笑っていたはずなのに。
 だけど、一番自分に怒っていた。
 どうして、ベランダを伝って窓を割ってでも、お兄ちゃんに会いに行かなかったんだろう?大好きだったし、ずっと長い間お兄ちゃんと話もしていなくて、ずっと話したいって思ってた。もしも、あたしが少しでもお兄ちゃんの悩みを聞いてあげれば、こうはならなかったかもしれない。
 やっぱりそれでもこうなってしまったかもしれない。
 だけど、あたしはなんにも出来なかった。

 でも、セイくんは透明人間になったあたしを、見つけてくれた。
 その何日か後に、あたしはコンタクトレンズを入れた。
 あたしたちは、毎日毎日会うようになった。
 大切な人を失った者どうし身を寄せ合っていた。
あたしはセイくんが一緒にいてくれれば、この悲しみも乗り越えられるような気がした。
 自分の家よりもセイくんの部屋の方がくつろげた。家にいる時は、いつも息を詰めて、お父さんとお母さんが少しも悲しい思いをしないよう、笑っていないといけない。

 セイくんはあたしのことをモモカ、と呼ぶようになってあたしは、セイくんと一緒にいると、胸がすごくどきどきしているのに気付いた。
 体を重ねて、初めて男の人を愛した。
 そして、ギター、音楽、なにもかもをセイくんに教えてもらった。

 
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