普段夜には出掛けないようなソーホーのおしゃれな地区に、そのクラブはあった。
使わなくなった地下鉄の駅を改装した、コンクリートの地下シェルターみたいな造りで、来ている人もみんなおしゃれだった。
きっとふたりが来たら喜ぶだろうな、と思ったら胸が少し痛んだ。
昔の知り合いにばったり会ったって言った。
嘘じゃないけど少し後ろめたかった。
入口で名前を言うと本当に通してくれた。
あたしはバタフライで買った古着のロゴ入りタンクに小さめのパーカー、それにブーツカットのブラックジーンズとコンバースで、ドレスコードがなくて安心した。もしあったら、門前払いだっただろう。
すぐに川瀬さんを探そうかと思ったけど、まずは平常心を取り戻す為にバーに向かった。注文しようとしたけど、なかなかバーテンはあたしに気付いてくれない。それか、気付いてはいてもダサい客は後回しにする主義なのかもしれない。
「ジントニックふたつ」
耳の後ろがどくんと大きく鳴った。ゆっくりと振り返ってみると、受け取ったプラスチックコップを2つ持った川瀬さんが立っていた。
「これでよかったかな?」
そう言ってひとつあたしにくれる。
「ありがと」
あたしは喉から声を搾り出してそう言った。
あたしは今でも川瀬さんに教えてもらったジントニックばかり飲んでいる。初めはまずくて嫌いだと思っていたのに。
すぐに川瀬さんが回す順番になって、あたしはフロアに入った。
人が犇めき合っていて、ソファにもベンチにも空いている席はなかった。仕方なく、DJブースがよく見える壁にもたれる。
川瀬さんの選曲は一年半たっても全くズレていなくて、あたしはもう胸が一杯だった。
だけど、ぜんぜん踊りたい気持ちにはなれなかった。あたしはブースの中で作業をしている川瀬さんを見つめていた。
一時間経った頃、バーナード・バトラーの『ノットアローン』が鳴り出した。
あたしはもうほとんど泣きそうだった。いつのまにかそばに川瀬さんが立っていて、あたしの肩に腕を回すと引き寄せた。
あたしは、結局20歳の頃から何も成長していなかった。
もう認めるしかない。あたしは、この腕も声も顔も全部が恋しかった。忘れたつもりだったけど、ぜんぜんそうじゃなかった。
初めてクラブで見た時から、川瀬さんはあたしの憧れの人だった。外見がなにもかもあたしの好みで、曲の好みが似ていた。でも、彼はすごく大人で、話し掛ける勇気もなかった。
手なんて届かないくらい大人だと思っていた。
だけど話してみるとすごく穏やかで優しい人で、川瀬さんに対する憧れは会う度強くなった。彼は次の週のイベントに誘ってくれた。それから毎週毎週いろんなイベントに通
った。
そして5、6回目でついにその時が来た。
「今日、家に来る?」
「え?」
「いや、嫌ならいいんだ」
「い、嫌じゃないよ」
あたしは勢いよくそう言って、彼の家について行った。薄々、気付いてはいた。川瀬さんはいつもいろんな子に囲まれていて、彼女とかそうじゃない子とか、沢山いるだろうって。きっとDJなんてみんなそんなもんだろうって。なのにそれでもいいと思った。
その時にはあたしはもうどうしようもなく彼を好きになっていた。何度も足を運んだイベントでたくさん話をしていた。
川瀬さんは、あたしが唯一バンドや将来について話せて、それを馬鹿にしたりしない大人だった。
その日初めてセックスをして、あたしはもっと彼を好きになった。その時部屋で流れていたのがバーナード・バトラーのアルバムだった。
その頃あたしはだんだんとミクスチャーの影響を受け始めたアラシ君の勧めで、激しいロックばかり聞いていた。
そこへ、この曲がすっと入ってきた。
あたしはそれから何度も彼のイベントと部屋に足を運んだ。他の場所でデートしなくても、彼が一度も好きって言わなくても、あたしは我慢した。
あたしも、一度も彼に自分の気持ちは伝えなかった。
彼はそんなこと望んでいないと感じていたから。あたしは彼の部屋に通って、話や愚痴を聞いてもらって、セックスをして。これ以上望むものなんてない。
そう思い込もうとした。だけど、だんだん欲張りになっていく……ときどきすごくみじめな気持ちになって、そんな自分が嫌でしょうがなかった。
そんな時ミミコとモモに出会った。
あたしは、ふたりに川瀬さんのことを話せないでいた。
モモから昔の彼氏の話を聞いた時、あたしは自分の気持ちに気付いた。
ふられたのに、それをあんなふうに大切な思い出として話せて、自分が愛されていたことをちゃんと知っているモモが、本音ではすごく羨ましかった。
それでも、川瀬さんにぶつかって行く事は出来なかった。あたしは傷つくのが恐くて逃げる事を選んだ。
あたしが部屋に行くのをやめても、川瀬さんからはなんの連絡もなかった。
元々口約束があった訳でもないし、つきあいすらちゃんと始めていなかったから、終わるのにもなんにも必要なかった。ただ、彼の前から消えるだけでよかった。
その程度の関係だった。
店を出て駅近くのホテルまで歩く間、川瀬さんはあたしの手をしっかり握っていた。
理由は聞かなかったけど、きっとあたしは涙をこらえて、ひどい顔をしていたんだろう。
鍵を開けて真っ暗な部屋に入った瞬間、抱きすくめられた。
息が出来ないほど強く。
「会いたかった」
川瀬さんは耳元でそう言った。
「川瀬さん、誰かと間違ってない?」
あたしは確認せずにはいられなかった。
「間違ってなんか、ないよ」
そう言って川瀬さんはキスをした。
押し込めていた気持ちが、どっと溢れ出す。
あたしたちはそのままなにも言葉を交わさず、ベッドに倒れ込んだ。
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