運よくバスルームには誰もいなかった。中に入る直前、刺すような視線を感じて見てみるとマリアナがこっちを見ていた。
便器に覆い被さった途端、酸っぱい液体が込み上げる。そういえば、緊張して昼から何も食べていなかった。
なんども繰り返して吐いて、胃液しか出て来なくなってもまだ吐き気は止まらなかった。
どのくらい長くそこにいたのか、何回かノックが聞こえたけど、まだ誰かにバスルームを譲れる状態じゃなかった。
「モーモッ、大丈夫? あけて、」
ジェイミーの声がした。誰か、きっとマリアナに聞いたんだろう。彼女があたしを心配しているはずないから、あたしの酔い潰れた不様な姿をジェイミーに見せたかったのかもしれない。
急に首筋が涼しくなって、あたしは鍵を掛け忘れていたことを初めて知った。
「大丈夫?」
ジェイミーはそう言ってあたしの髪をまとめて持つと、背中を撫でてくれる。背中の大きく開いたドレスで、あたしの肌に直にジェイミーの掌が触れている。それでも気分は最悪なままだった。もう体はとっくに空っぽだった。あたしは立ち上がると口をゆすいだ。ジェイミーはあたしを支えようと両腕を出す。
「大丈夫」
あたしはなんとか一人で立ち上がる事が出来た。
心にあるのはただひとつ、早く家に帰りたい。
一人で帰れるって言ったのに、ジェイミーもあたしと同じくらい頑固で、タクシーの中に無理矢理乗り込んで来た。だけど、お互い何も話さなかった。
その様子から、ジェイミーはあたしが酔って絡んだだけだとは、思っていないようだった。時々なにか言いかけてやめるのが、空気で伝わって来た。
だけど、どうせ今のあたしには何も聞こえない。ジェイミーはその事もよく分かっているみたいだった。
重くて苦しい時間が気が遠くなるほど続いて、やっとタクシーが止まった。あたしはジェイミーの顔も見ずにさよならを言って降りた。
本当に、さよなら。
家はしんと静まり返っていた。よろよろと階段を上がって、自分の部屋のある3階を目指す。ミミコは朝まで仕事で、チコはもう寝ている。
すごく寂しい。
頭の中を、まだジェイミーの声や顔や言葉や匂いが回っている。
どうやっても追い出せそうにない。それどころか、体全部がジェイミーに支配されて、身動き出来ないくらいだった。
だめだよ。
全部追い出すの。どんなにジェイミーがかっこよくていい人でも、もうこんなに好きになっていた、って気付いても。
もう彼には近付いちゃいけない。
また気分が悪くなって、チコの部屋のある2階のすぐそばの階段に座り込んだ。
もう大切な人が消えてしまうのには耐えられない。
セイくんがあたしから離れたのとは違う。本当の意味で消えてしまうこと。きっとあんなにも深い喪失感には、もう耐えられない。
たとえジェイミーがそうなるとは限らなくても……その危険分子を秘めた人には、関われない。
「ヒッ」
背中で叫び声が聞こえて、振り返ってみると、チコが固まっていた。
「モ、モモー。もうっ、びっくりさせないでよっ、帰ってたんだ?」
チコは階段の電気を付けてあたしの方へ降りて来た。
「チコ……チコお。助けて……」
もう、限界だった。
強がって平気なふりなんかできない。
恐くて、寂しくて。
目を閉じるとセイくんもミミコもいなかった、あの暗闇に引き戻されそうな気がした……誰かにそばにいて欲しかった。
目の前が曇って、顎から涙がぽたぽた落ちる。
「え、あな、何? どうしたの? ちょっと一緒に下降りよ」
チコはあたしの腕をぎゅっと強く掴むと、階段を降りてリビングのソファに座らせてくれた。
「すぐ、すぐ戻るからねっ」
そう言ってチコはリビングを出ると、廊下を走ってトイレのドアをバタンッと閉める音が聞こえた。そしてまた同じスピードですぐ戻って来てくれる。
「どうしたの? ジェイミーになんかされた? パーティー楽しくなかった?」
あたしは勢い良く首を振った。
チコを困らせているのは分かってる。だけど、どう言えばいいのか分からなかった。
それに、咽が押しつぶされたみたいに苦しくて、うまく話すこともできない。
「お茶、飲む? おなか空いてない?」
首を振る。
「ごめんね……もうちょっと、したら、話す。から、今はここに座ってて」
ぎゅっとあたしの腕を強く掴んだままチコは黙って何度も何度も頷いた。
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