あたしはいたたまれなくなって家を出た。
チコのおかげで、ももちゃんは今夜ジェイミーと会うことになった。
あたしはチコに心から感謝をしていた。
本当はあたしも、ふたりは会った方がいいんじゃないかとは思っていたけど、昔のももちゃんを知りすぎていて、思いきった行動に出られなかった。だけど誰かが背中を押してあげるべきだった。チコはそれをしてくれた。
1時間前からガレージの歪んだギターは鳴り止まない。まだジェイミーは来てないみたい。
あたしはずっとリビングで聞き耳を立てていた。ほんとはキッチンから降りた地下室のシヤッターの隙間から一部始終見届けたいくらいで、ももちゃんが望むなら話を聞く間ずっと手を握っていたいくらいだったけど、もちろんそんなこと誰も望んでいない。
ぐずぐずとドアの前で悩んだあげく、とりあえずゆっくりと歩きだした。
スナッグは今日機材の入れ替えで、あたしはどこに行けばいいのか思い付かなかった。とりあえずカフェにでも行くしかない。
チコはまだ帰って来ていない。そういえば仕事の後ロッシとどこかに遊びに行くって言っていた。チコとロッシはそうやっていつも一緒に出かけているし、すごくお互いを信頼し合っているように見えるのに、恋じゃないってまだ言い張っている。
あたしにはそう見えるのにな。
「ミカコ」
ひとりでにやにやしていると、暗がりから名前を呼ばれて飛び上がりそうになった。
「ごめん驚かせた?」
そう言いながら出てきたのはアンディだった。次は違う意味でドキドキし始める。思いがけず遭遇するのは、約束して会うより5倍はドキドキする。
必死で今自分がどんな恰好をしていたのか思い出そうとしたけど、そんな余裕はなかった。
「うちに来たの?」
「うん。これ渡そうと思って」
そう言ってアンディは茶封筒を差し出した。アンディは走って来たのか息が切れている。 ランニングの途中には見えない。いつもと同じような恰好だし。
「なに?」
あたしはにやにやしないよう、必死で普通の微笑みを保とうとした。だって希望的観測では、アンディはあたしに何かを渡すために走って来たことになるんだから。
「早く、開けてみて」
心なしかアンディはいつもよりテンションが高い。あたしは袋の中を除いてみた。
「本?」
アンディは満足げに頷いている。薄いハードカバーの本が見えた。あたしは期待を込めてそれを引き出した。出て来たそれは、期待を遥かに上回っていた。
「え、わ、うあっうそ、なにこれ、新刊?」
それは見たこともないデクスター氏の本だった。
「新刊発売の予定なんて、知らなかったっあたしちゃんとチェックしてるのに、それにいつもと雰囲気違うよね、装丁かわいいー」
黒地にショッキングピンクのタイトル。表紙の真ん中にはエンボス加工のちいさな金色の星が光っている。それだけですでに胸がきゅんとした。
『マイティミーロックンロールスターへの冒険』
あたしは目を疑った。きっとこれはロックスターと惑星を掛けてるんだよね。
「これほんとにデクスター?」
アンディはにっこり笑って頷く。
でもだって、いつもはモノクロ写真の不気味な表紙で、『宇宙船艦ニール無限時間パラドクスの危機』『ジャイロ博士の秘密のブラックホール』『オメガ44奪還計画』『惑星モジェイコの秘宝』とか、とにかくこんなかわいい本じゃない。
でも、背表紙にも表紙にもちゃんと名前が書いてある。本の周りはピンクの蛍光ペンみたいな塗料でぬ
ってあるし。
「ミスターデクスター、ボケたのかなあ?」
頭に浮かんだことを口に出してみた。そしたらアンディはおもいっきり笑いだした。今までに見たこともないような大爆笑だった。
「ミカコは、彼を老人だと思ってるんだ?」
「うん、そう。違うの?」
「さあ、どうだろうね」
そう言ってアンディは微笑む。胸がきゅうーっとなる。
「じゃあさ、彼のイメージ話してみて」
「いいよ、70才くらいのおじいちゃんでね、きっと作品は誰にも立ち入らせない部屋とかで書いてて、彼の家には図書館並の資料室があって、あときっと実験室もあるんじゃないかな。見た目は、ツイードのジャケットにひじパッチがついてていっつも紅茶飲んでるような人か、痩せてて神経質そうなベジタリアンで、見た目はウォーホールみたいな人か、どっちかだと思う」
あたしは断言した。
「アンディどう思う?」
「さあ、どうだろう、」
その声は震えている。
「アンディ、いいよ笑えば? あたしの想像力は逞しいの」
「……だね」
アンディはまだ笑いながら頷いた。早く読みたくて、表紙をめくってみると、そこにペンでサインがしてあった。
”ミカコへきみは世界一の読者だ。愛をこめて、A・J・デクスター ”
「わっ! うあっ! わああっ!」
思わず両手でがっしりアンディのパーカーを握った。
「なんで? なんで! うそ、これサインっ、だよね?」
「そうだよ。友達が出版社の編集者で。だから頼んでもらったんだ」
アンディは満足げに頷く。
「嬉しいっほんっと嬉しいっ、アンディももらえた?」
「いや」
アンディは笑顔のまま首を振る。
「なんで!」
「男にはサインしないんだって。いや、むしろミカコが特別にサインもらえたんだよ」
「そうなの? うそ、嬉しー」
本をぎゅっと抱きしめた。だってこれはあたしにとって、イアンとあんなことがあったのと同じくらい奇跡的な事だった。
「他の休憩してさ、先にそれ読むといいよ。だって、世界のどの読者よりも早く読めるんだよ?」
アンディは目を細めて言う。
「そっか、そうなんだ。すごいよほんと……あ、でもアンディはもう読んだよね?」
「え? あ、うん」
アンディは眉毛をぴくっと動かして、決まり悪そうに頷いた。
「じゃ、あたしが世界の女性読者の1番目だねっ」
あたしがそう言うと、アンディはなんとも表現しがたい、変な顔であたしをじっと見つめた。
なんだかドキドキした……それはどう見ても好意的な眼差しだったから。
キスされるんじゃないかと思った。
ドギマギして目が見れなくなってそらすと、アンディは勢い良くロッシがするみたいにあたしの髪を掻き回した。
「じゃあこれ渡しに来ただけだから。また」
アンディはそう言うとくるっと背中を向けて歩き出した。
「あ、うん、」
あたしはボサボサ頭のまま、ぼーっとしていた。だって、今、本当にキスされるかと思った……あたしの考え過ぎだとしても、泣いていないあたしにアンディが触ったのは初めてだった。
ちょっと希望が湧いてきた。アンディはゲイじゃないよきっと。
たぶん……うん、絶対に……そうじゃないと困る。
だいぶ小さくなった背中目掛けて走って飛び付きたいけど、今はぐっとこらえる。
「アンディー! ほんとありがとねー!」
お腹に力を入れて、おもいっきり叫んだ。暗くて小さくても、アンディがビクッとしたのが分かった。
それから自分の服を見てみると、古着屋さんで1ポンドで買った変な水玉
模様の半ズボンとビーチサンダルだった。
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