「乾杯ッ」
なみなみとビールの入ったジョッキを勢い良くぶつけたせいで、冷たいビールが手の甲にこぼれたけど、そんなこと気にもならなかった。
「ほんとやったよね……あたしたちついにロンドンでライブしたんだよ?」
ごくごくと咽を鳴らしてビールを飲むと、ミミコとモモの顔を交互に見て言った。
「チコ、ちがうよギグっていうんだよ……はあ、ほんとにさあ、すごいよね?ロンドン進出だよ? 長かったよ、ここまで」
ミミコは宙をみつめて、今にも泣きそうな声で言う。
確かにここまでの道のりは長かった。ロンドンに渡って来て、家を探して仕事を見つけるのに2ヶ月。
それ以前、ふたりに出会ってからだと2年になる。
こっちに来ても知り合いなんていなかった。コネもなかったし知識もなかった。幸い練習は家の地下室で出来たから困らなかったけど
。
ライブハウスの傾向も勝手もわからずに、デモテープをとにかく送ってみた。送った後になってブルースバーだと気付いた所さえあった
。
それに、結局どこからも返事はなかった。
3ヶ月たった今、カタコトだった言葉はなんとかコミニケーションを取れる程度になった。
日本で1年間半英会話に通いながら、3人で英国パブや外人の集まるバーに何度も足を運んで、人の会話に聞き耳を立てていた。
引っ込み思案なあたしたちは、そういう場で外国の人に話し掛けることさえできなかった。それでもその成果
はそれなりにあった。
「で?どうだった、うちでの初ギグの感想は?」
ベンはカウンターの向こうで、右腕をお腹に巻き付けて左手で顎ヒゲを撫でる、いつものポーズで立っている。
『スナッグ』はあたしたちが引っ越して来たのと同じ頃にできたパブで、オーナーは37歳のベンと従業員はあたし達と同い歳のロッシ、それに音響スタッフのデイヴィスだけで、それでもやっていけるくらいの知名度の、ひっそりとしたパブだった。それがいつのまにか、いつ来ても人のたくさんいるにぎやかなお店になった。
モモはカムデンの古着屋『バタフライ』あたしは近所のレコードショップ『ノーワンエルス』で働き始めた。だけどミミコはなかなか仕事が決まらなかった。
実際、失業率の高いこの国で外国人のあたしたちが仕事を見つけられたこと自体が、奇跡なのかもしれない。もちろん日本じゃ見向きもしないような安い給料だけど。
「ゆっくりみつければいいよ」って本心からそう思って言ったけど、テンパったミミコの耳には聞こえていないも同然だった。そしてつい2週間前、ミミコはスナッグの4人目の従業員になった。
「ありがとうベン、本当に楽しかったよ。音も照明もいいし」
あたしはパブのいろんな声にかき消されないよう、大声でそう言った。
「本当にほんとにベンのおかげだよっ、ありがとうっ」
もう少し酔っぱらったミミコはカウンターから乗り出して、ベンの腕をがっちり掴んで言った。
「いいライブが出来たよ? あたしたちとしては。でも、ベンどう思った? なんか……お客さん引いてたんだけど」
それまで黙っていたモモが口を開いた。
そう。それが聞きたかった。
「ものめずらしい、日本人の女の子バンド。演奏はあんまりうまくないし、何言ってんのかさっぱりって感じだったろうな」
あたしたちの内臓をぐりぐりえぐるような事を、ベンは平気で言う。
実際あたしたちは息を飲んで黙った。
「でも……まあ。俺は楽しませてもらったよ。ありがとう」
そう言ってベンは笑った。ミミコとモモはベンをハグしようとカウンター越しに腕を延ばしたけど、ベンは右手を上げて笑いながら逃げて行った
。
「あ、そうだミー、それ一杯飲んだら働けよ」
振り返りざま、ベンはそう言って奥に入って行った。
「ほんっと、ベンっていじわる」
ミミコはそう言ったけど、顔はまだ笑ったままだ。
「おいっ、ミー」
ちょうどそこへロッシが来て、いきなりミミコの頭をぐりぐり撫でだした。
「ロッシ、髪の毛ぐちゃぐちゃになるよっもうっ」
ミミコはその腕を掴んで離す。
「なんだよ、いっつもハネてんじゃん」
ロッシは大きな口をもっと大きく開けて笑う
「なっちがうよ、いっつもワックス付けてね、ちゃんとこう無造作ヘアにしてさ」
ミミコは短い髪の毛に指を通して一生懸命整えている。
「まあ、気にすんなって」
『そんなことしなくってもかわいいんだからさ』ってあたしには聞こえた気がした。もちろん空耳だけど。
ロッシはこの2週間で恋におちた。もしかしたらあたしたちが店に遊びに来始めた頃からだったのかもしれないけど。とにかくミミコの事が好きでそれはもう公然の事実で、モモもあたしも、それにベンもデイヴィスも知っている。誰から聞いた訳じゃなくても、簡単に分かってしまった。
でも、ミミコだけは気が付かない。
「ほんっと、いつになったら気付くんだろうね、ミミコ」
ミミコが重い腰を上げて渋々仕事に向かった後、あたしたちは、ミミコの後を楽しげについて回っているロッシを眺めていた。
実際あたしたちはロッシのことを、リバプールから来ていてあたしたちと歳が同じっていう事くらいしか知らないけど、ミミコの話からすると、いい人なんだと思う。見た目だって悪くはないし、正直ちょっと初めかわいいと思った。
ロンドンに来てよくわかったのは、日本人がモテるっていうのは本当らしいっていうこと(クラブに行く度に、今までナンパ経験ゼロだったあたしですら声を掛けられる)と、それから東京に住んでいるからって毎日芸能人と会う訳じゃないのと同じで、町中をロックスターやモッズやパンクスがうじゃうじゃと闊歩している訳じゃなくて、かっこよくなかったりおしゃれじゃなかったりする人の方が断然多いっていうこと。
実際、日本にいるあたしの男友達のほうが、かなりおしゃれに気をつかっていた。
『素材はいいのにもったいない』そう思うことが多々あって、その度にミミコとモモはその人をしげしげと眺めながら、勝手な判断でこんな服が似合うとかこんな髪型にした方がいいとか、スタイリングする。
もちろんその結果を本人が知ることは一生ない。
「あの、デモテープ欲しいんだけど」
後ろから声をかけられて慌てて振り返った。モモなんて、勢い良く振り返り過ぎてカウンターで背中を打ったくらいだった。
そう言ったのは背の高い若い男の人で、ここで見かけたことはなかった。 チノパンにカーハートのボアのついたコート。髪はブラウンで、ボサボサの肩までのストレートヘア。それに黒ぶちめがね。
『素材はいいのにもったいない』モモの心の声が聞こえてくるような気がした。隣を見ると、案の定モモはなにか言いたげに口をもごもごさせていた。
その上、こういういかにも文科系な、いわゆるおたくっぽい人たちにミルレインボウはどうしてかウケる。それが、日本でだけじゃなくってロンドンでもだなんて。これはすごい発見かもしれない。
それに、あたしたちはそういう人たちと話をするのが好きだった。ダサいとかじゃくくれない、思慮深さとか奥深さ。綺麗な目をしていて、自分の好きなものをちゃんと分かっているひとたち。
「本当に、1ポンドでいいのかな」
その人は手のひらに乗せたコインを見せて言った。
「もちろん、ありがとう」
モモはかばんから出したカセットを見せて笑顔で答えた。
ミルレインボウのどこが気に入ったの?
あたしたちのライブ楽しんでくれた?
またライブに来てくれる?
たくさんの質問を胸の内に納めて、あたしたちは笑顔で彼を見上げた。
ふたりで彼が何か言うのを待つ。
「ありがとう」
それなのに、その彼はにこりともせずにテープを受け取った。
その上、そのまま立ち去ろうとする。
うそ? 何のコメントもなし?
モモも同じ顔をしてあたしを見ていた。
「あのさ」
その時、3歩進んだ男の人が振り返った。
「すごく、インスピレーションを受けたよ。ありがとう」
無表情のままそう言うと、立ち去って行く。
あたしたちは彼がドアを出て行くのを恋い焦がれるように見つめていた。
「すごい、ね、すごいよね。インスピレーションだって」
モモはあたしの腕を痛いくらいにぎゅうっと掴む。
「初めてだよね、そんなこと言われたの。あの人何やってる人だろう? アーティストとか?」
本当は引き止めて3人で取り囲んで『ミルレインボウから受けたインスピレーションについて語らう会』を開きたいくらいだった。
後でミミコに話すと、その場に立ち会えなかったことをすごく悔しがっていた
今夜こそが、ミルレインボウの華々しいロンドンデビューの夜だ。
あたしはモモとそう言い合って、出演者にはタダのビールで、何回も何回も乾杯した。
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