ロックンロールとエトセトラ  
  1月 ビタースウィートシンフォニー
bitter sweet symphony / the verve
 
   
   #4 503号室 モモカ
 

「レイチェル?」
 静かな病室に、囁くような声が響いて、あたしはドアノブに手を掛けたまま固まった。
 背中を向けたまま立ち尽くす。体がまるで電気ショックを受けたように痺れて、言うことを聞かなくなってしまった。
「だれ?」
 その声は、あたしに向けられていた。夢にまで見たジェイミーの甘いしゃがれ声。今はもっとかすれていて、すごく小さかった。
 本当に体が固まったままで、動けなかった。急にのどが乾いて息がしにくい。 「こっち、来て」
 その言葉で、あたしは弾かれたように振り返った。
 嘘みたいだった。ジェイミーがあたしを誰かと勘違いしてるんだとしても。今その声はあたしに向けられてる。
「来て」
 ジェイミーはさっきと同じ仰向けのまま、あたしに話し掛けている。まだあたしのことは見えていない……このまま帰ることもできるかもしれない……

 だけど、やっぱりそれはどうしてもできなかった。
 あたしはゆっくりとジェイミーの方へ振り返った。自分の足で立てていることが不思議なくらい動揺していた。
 こんなはずじゃなかったのに……なんて思うふりをして、一所懸命自分やミミコに対する言い訳を考えていた。だけど本当は嬉しくて舞い上がってどうしようもないくらいだった。
 ジェイミーに見えるよう、そばに立った。彼はうっすらと目を開けていた。  予定よりもだいぶ早く目を覚ましたせいで、まだ眠そうな目だけど、たしかにあたしを見ている。
「きみは……だれ?」
 ジェイミーはまばたきを繰り返して、なんとか目を開けている。
「あたしは、モモカ。痛くない? 大丈夫?」
「モモー?……ごめん、僕はきみのこと、知ってるのかな……思い出せないんだけど」
 ジェイミーは気まずそうにまゆを寄せた。
「ううん、違うの、あたしは家に帰る途中に、偶然見つけただけだから。だから、あたしとジェイミーは、知り合いじゃないの」
 まさか、彼女としてついて来ただなんて言えない。それでも、またジェイミーは不思議そうな顔であたしを見上げていた。
「僕のこと、知ってるの?」
「え、ああ、ジェイミーで、いいんだよね? ネームプレートにそう書いてある」
 あたしはベッドの脇にあるプレートを指差して取り繕った。
「ああ……ジェイミー・ブラウン。初めまして」
 彼は眠そうな顔のまま微笑んで、ゆっくりと管の刺さった右手を上げようとした。あたしはすぐにその手を掴んで握手した。
「はじめまして、あたしはモモカ・キタモト……あのね、あなたが路地裏に倒れてるのを見つけたの。それで、ここは病院なんだけど、覚えてる?」
 ジェイミーは少しの間、目を閉じていた。眠ったのかと思ったけど、またゆっくりとまぶたが持ち上がる。
「いいや……なにも。俺、酔ってたんだけど。チェリーボムにいたはずなんだ」  チェリーボムッ!
 ……息が止まるかと思った。だって、チェリーボムはスナッグの一本奥の筋にあるクラブで、すごくちっちゃくてトイレとかも汚くて、10代から20代の子たちが集まっている、ほんとに庶民的な場所で。あたしたちも何回も踊りに行っている。あんなところに、あんな近くにジェイミーがいたなんて。
「ち、チェリーボムからは少し離れた所にいたよ。覚えてない?」
「うん……思い出せないな……ごめん、ほんとに眠くて……まだ」
 そう言ったまま、ジェイミーは目を閉じた。
 今度はもうまぶたは閉じたままだった。耳をすますと、規則的な寝息が聞こえてきた。
 あたしは近くにあった椅子をそっと引き寄せると、そこへ座ってしばらくジェイミーの顔を眺めていた。
 すごいよ、ジェイミーがあたしの名前を。言えてなかったけど、でも呼んでくれたよ。
 ねえ? ミミコ、チコ、これってすごいことじゃ……
 あたしは、その時初めて時計を見た。
 日付けが変わって午前4時。いつのまにこんなに時間が経っていたんだろう?
 どうしよう、絶対にふたりともすごく心配してる。
 言い訳はいくらでも、本当に何百個でも思い付けるけど、だけどミミコとチコの気持ちを考えたらそんなこと言ってる場合じゃないと思った。ミミコなんてあたしを心配して泣いてるかもしれない。
 あたしは鞄から急いでペンを出すと、作詞用のノートをちぎって、ジェイミーに『早くよくなってね』とメモを書いた。
 それからいつも鞄に入れて持ち歩いているデモテープと、一番近いライブのチケットを2枚、ジェイミーのベッドサイドの机に置いて部屋をそっと出た。

 走って病院の外に出ると、急いで家に電話を掛けた。こんな時間なのにワンコールで受話器が上がった。
『もしもしッ?』
 いつもよりも大きなチコの声
「あ、あたし、モモ、ごめんねっ、ほんっとにごめんねっ」
 とにかくあたしは平謝りするしかなかった。
「ももちゃん?無事?怪我はない?危ない目には合わなかった?」
 ミミコは鼻をすすっていた。

その質問に答え終わったと同時に、チコのお説教が始まった。あたしは神妙に受話器を奪い合うふたりのお説教に耐えた。

 
 

#3#5

 
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