「ねえドロシア、どうしてうまくいかないんだろう? ジェイミーみたいにかっこよくて成功してて、あたしたちが目指す場所にいる人が、どうして死んじゃいたいなんて思うんだろう?」
一昨日、仕事を終えて家に戻るとチコが抜け殻みたいになってリビングのソファに沈んでいた。
無理もなかった。チコと知り会ってからももちゃんは失恋もしてない。
それにももちゃんは強くて、小さなことじゃあたし達に泣きついたりしない。
『ミミコの涙はもう見慣れてるけどね』そう言ってチコは笑ったけど、カラ元気に見えた。
ジェイミーの言葉が、どれほどももちゃんを突き落とすのか。あたしはその事をよく知っていた。もしも、ジェイミーがそんなことを言いさえしなければ、ふたりの未来は薔薇色だったんじゃないかと思う。
だから、そんなことをももちゃんに言ったジェイミーのことが、すごく憎らしく思えた。
「誰にだって、他人には計り知れない深い悲しみくらいあるものよ」
ドロシアは優雅な手つきでカップを持ち上げながら言う。綺麗なラベンダー色に塗られた彼女の爪や白い手を見ながら、あたしは自分にもそんな悲しい事があるか考えてみたけど、なに一つ浮かばなかった。
「あたしにはないよっ」
そう言うと、ドロシアの目じりにくっきりとシワが浮かんだ。
「それはとっても幸せなことなのよ、ミー」
ドロシアは微笑む。将来、あたしにもドロシアみたいな素敵な笑いじわが欲しいなって思う。
「じゃあ、ドロシアには、あるの?死んでしまいたいって思ったこと」
そう聞くと、ドロシアのブルーグレーの瞳に哀しみが広がった。しまったと思った。
あたしは時々深く考えずに口に出して後悔する。自分が馬鹿なせいでたくさんの人を傷つけているんじゃないかって思う。
「そうね……認めたくはないけど……」
ドロシアはゆっくりと話し出す。
「7年前、ジェラルドが逝ってしまって……突然ではなかったわ。一年も入院していたし。覚悟はとっくに出来ているつもりだった。娘を事故で亡くした時、耐えられないと思ったわ。もう何もないって。だけど、私にはジェラルドがいたから……だから乗り越えられたのよ。悲しみをふたりで分ける事が出来た。娘婿とも、孫のアンディとも疎遠になってしまったけれど。それでもなんとか乗り越える事が出来たの」
そこまで聞いて初めて、アンディのお母さんが亡くなっていることを知った。
「アンディの父親は、かわいそうな人だったわ。悲しみをうまく乗り越えられなかったのよ。彼を支えてあげられるような、アマンダの代わりになるような子なんていなかったから。だから……お酒に逃げた。その時アンディはまだ12歳だったのよ」
ドロシアはあたしに微笑みかける。
まだ子供だったアンディを思うと胸が痛んだ。想像の中のアンディはめがねをかけてポロシャツを着た線の細い男の子だった。
「父親はあの子をうまく愛してあげられなくなってしまったの。無理もないと思うわ。あの頃のあの子はあまりにもアマンダに似ていたから」
「アンディのお母さん?」
「そうよ。とっても美しい子だったわ」
そう言いながら、ドロシアはいつも持っているビーズで出来たポーチから一枚の写
真を出して見せてくれた。そこには幸せな三人家族が写っていた。アマンダは本当に綺麗な人だった。それに、10歳くらいのアンディは想像とは違って、大きな口をあけて太陽みたいに笑っていた。アマンダとアンディの瞳はドロシアとお揃いだった。
「あの子荒れたわ」
「アンディが?」
「ええ。難しい年頃だった事も加わって、学校にも行かなくなったし、進学もしなかった。誰にも相談なんてしなかったし、私にもジェラルドにも会いに来なくなってしまったのよ。その間あの子がどのくらい悪い事をしたのか、実際のところ誰も知らないの」
あたしは映画のあらすじを聞いているみたいな気分だった。
だって、あのアンディが悪いこと? きっと少しマリファナを吸うとか万引きをするとか、そのくらいの事だとは思うけど。それでも想像が付かない。
「あの子が15になった頃、父親はやっと少し悲しみから抜け出せたの。そうしたら、息子は遠い所へ向かっていた。悪い仲間と関わって、さらに深みにはまろうとしていたの」
「深み?」
「ええ。平たく言うと……ギャングよ。まだ完全に浸かっていた訳じゃないけど、なにか良くない強盗まがいのことをしようとそそのかされていたの」
アンディが、強盗??
あたしの想像力を持ってしても、映画のギャングスター・ナンバー1みたいな世界にアンディがいるなんて、そんなところ思い描けなかった。
「お父さんは、止めたの?」
「ええ。彼は立派に息子を止めたわ」
ドロシアはどうしてか笑う。
「彼はアンディを連れて町を出ようとしたの。もちろんアンディはそんな簡単に言う事を聞かなかった」
「それで、どうなったの?」
「力づくよ。殴り合ってとっくみ合って。かろうじてアンディの父親が勝ったのよ。お酒の力を借りずに。そのまま意識のないアンディと荷物を車に詰め込んで、夜逃げするように街を出て行ったらしいわ……私たちがその事を知ったのは翌日の電話で、もうその頃にはウェールズにいたのよ」
ドロシアはくすくす笑いながら楽しそうに話すけど、あたしはただびっくりして口を開けていた。
「この話自体も後になってアンディから聞いたのよ……ずっと不思議だったのよ、アンディが黙って付いて行ったはずがないと思ってね。けれど、すぐにロンドンに舞い戻らなかったのは、アンディなりの誠意だったのかもしれないわ。あの頃の彼になら、お金の工面
のしかたはいくらでもあったはずだから」
アンディのことをだんだん分かって来て、彼がどんどん近付いて来たって思っていたけど、思い違いだったみたい……また遠くに行ってしまったような気がする。
もっともっとアンディを知りたい。
「ミー?アンディの事が嫌になったのかしら?」
黙ったあたしにドロシアはそう言った。 「まさか、違うよ。アンディが落ち着いてるって思ってたけど、そんなに色んな事を経験してるからだったんだね。だって年下だとは思えないもん」
そう言った後、ドロシアが不思議そうな顔をしているのに気付いた。
「ミーはいくつだったかしら?」
「3月に誕生日が来て24歳になったよ」
「そうよねえ? どうしてアンディが年下だなんて思ったのかしら?」
ドロシアは笑い出した。
「え? 違うの? だって大学生だって」
「違うわよミー、大学生じゃなくって、博士号を取る為にラボで研究しているのよ。それに、ハイスクールには行かなかったから、受験資格を取らなければならなかったし」
ドロシアの話を聞いても、全然計算できない。
「じゃあ、アンディはいくつなの?」
「先月28歳になったわ」
ドロシアはまだ笑いながら苦しそうに言う。
にじゅうはち?……じゃあ年下どころか、四つも年上なんだ。それは……落ち着いてて当然だよね。
「年上は嫌いかしら?」
ドロシアは目を細めて言う。
「ううん」
あたしは首を振った。
むしろ好きな方だし、それ以前に今さらアンディが実は18歳でも35歳でも、あたしにとってはなにも変わらないのかもしれない。
「でも、あたしまだぜんぜんアンディのこと知らないんだね。それに、誕生日のことだって言ってくれれば何かお祝いできたのに……」
そう言いながら、さっきからドロシアがおかしなことを何度も言っているのに気付いた。
『アンディのこと嫌になった?』とか、『年上は嫌い?』とか。
……ドロシアはあたしの気持ちを知っている。
急に恥ずかしくなった。今まであたしはさりげなくアンディについて探りを入れていたつもりだったのに、きっと全然さりげなくなんかなかったんだ。
「アンディと一緒に、幸せになれればいいわね」
ドロシアは朗らかにそう言った。
アンディを幸せにしてあげて、でもなくて、幸せにしてもらいなさい、でもなくて。胸がじんわりと温かくなった。
「うん……そうだね」
ドロシアに隠し事なんてする意味はないから、あたしは素直に同意した。
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